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「英語が流暢でなければ……」──“英語帝国主義”に生きるファッションモデルのモヤモヤ【Tairaの臨床モデル学 vol.12】

撮影現場で対等に扱われない。英語力へのコンプレックスから発言を控えてしまう──欧米が未だ“最高峰”で“中心地”であるファッションシーンにおいても、共通語はやっぱり英語。モデル仲間の樋口可弥子との会話を機に、Tairaが、“英語帝国主義”へのモヤモヤを思考する。

「英語ができないと」と言うけれど……

「ロンドンで、モデル仲間の樋口可弥子ちゃんとプライベートでお食事をしたときの一枚です」 Photo: Courtesy of Taira

先日、自分が個人的に配信しているポッドキャストT TIME』にて、日頃から親しいモデル仲間の樋口可弥子ちゃんをゲストに迎えたのだけれど、そのエピソードの中で可弥子ちゃんは次のような思いを共有してくれた。

「いまだに自分の英語にもコンプレックスがある...…言語は、私が感じている疎外感であったりだとか、悔しさにすごく繋がっているひとつの大きい要素だと思っている。私は(英語を話しているとき)少なくとも、実年齢からマイナス6歳くらいに感じるんだよね。普段、日本語でお喋りをすることが好きだから、英語での会話の中で、母語と同じレベルで意思や考えを表現しきれないことにすごくフラストレーションを感じてしまう」

「英語ができないと国際社会ではやっていけない」と言われることは少なくないし、実際に海外に渡って暮らし、働く上で、(世界共通語として最も使用されている言語である)英語が話せるのと話せないのとでは、現地での日常生活に大きな差が出ることは確かだろう。そうは言っても、海外で暮らし仕事をする中で、そうした”英語帝国主義”な社会の成り立ちに、私自身も、どうしても違和感を覚えてしまうことがある。

今日までのグローバル化の流れの中で、経済をはじめとしたあらゆる資本が先進国、特に欧米諸国に集中してきた局面があって、ファッションを含めた文化的資本もその例外ではない。この連載のVol.1でも触れたけれど、”エクスクルーシビティ”に価値をおくファッション業界は、そうした現代の資本主義社会の中で構築された国際情勢のヒエラルキーを、より色濃く内在してきたと言える。世界の“最高峰”として位置付けられるファッションウィークを主催する都市が、ニューヨークロンドンミラノパリの4都市であることからも、やはり国際的な権威や文化的資本は、ファッション業界でも欧米に集中していると言えるだろう。したがって、ファッション業界を率いる立場にいる人々が、文化社会的な特権(人種、国籍、ジェンダー、セクシュアリティといったあらゆる面において)を有した人たちによって支配されている構図が、長きに渡って保管され続けている側面は否めない。

ファッションの“中心”である欧米で感じるモヤモヤの正体

スペインの街角に掲げられた英語学校の看板。Photo: Alex Segre/UCG/Universal Images Group via Getty Images

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そんな情勢下で、より“良い”仕事を求めて、世界中から欧米のファッション業界に多くの人々が集まってくることは自然な流れなのかもしれない。自分の場合は、学問の領域での機会を求めてイギリスに越してきたことが始まりだったけれど、そのまま欧州に留まり、今では上記のファッション4都市を中心に働いている。事実、欧米のファッション界隈では、私同様、さまざまなバックグラウンドをもった方々がともに働いている。だから、ロンドンでの撮影であったとしても、私以外のスタッフ全員がイギリス人だった現場というのは、個人的には経験したことがない。そして、世界の至るところから人材が集まる仕事現場では、やはり英語を用いたコミュニケーションが基本だ。

どんな仕事にしても、一緒に業務に取り組む人たちとある程度の意思疎通を図れないと仕事が成り立たない。お互いに不自由のないコミュニケーションが取れれば取れるほど好ましいのは確かだけれど、英語が母語でない人にとっては、各々がどれほど“円滑”に英語を介して意思疎通できるかに個人差があるのも当然だ。また、そうした個人の“英語力”は、その人のクリエイティブな側面における技能や個人としての能力を必ずしも反映しているわけではないはずだ。ところが、やはり欧米で働く“外国人”として、周囲から対等に扱われ、出世していくためには、英語に不自由ないことが基本的な必須条件として課されているように思う。

ただ、ファッションモデルに限っていえば、モデルに期待される役割は、言語能力に大きな価値が置かれたものではないため、例えモデルがほとんど英語を話さなかったとしても、仕事としては成立する。ポージングなどに関してはジェスチャーで伝え合うことも出来るからだ。実際、欧米の現場では英語をほとんど話さないモデルもいる。

そうした現場で時折考えさせられることが、母語に由来する格差についてだ。もちろん自分が生まれ落ちる国や地域は選べるものじゃないから、この記事を通して英語の母語話者にブーイングを浴びせる意図や、不満をぶつける意図は全くない。また、不平等に感じるからといって声をあげることで、何かが変わるというような単純なトピックでもないと理解している。だから、今回の手記は、自分が払拭できないモヤモヤというか、歯痒い気持ちを皆さんと共有できたらいいなという思いで綴っている。

英語コンプレックスはどこから来るのか

1922年、ドイツ・ベルリンのシャルロッテンブルグの森の中で英語の授業を受ける生徒たち。Photo: The Print Collector/Print Collector/Getty Images

Print Collector/Getty Images

さて、そんな欧米の現場で働いていると、英語圏外で生まれ育った誰かが、英語で“流暢”に意思疎通が出来なかった場合、それだけで距離を置かれてしまったり、どこか下に見られるというか、子ども扱いをされているかのような局面を垣間見ることがある。

ここからは先日、私自身がフランスで仕事をした際に起こった体験談だ──現場入りをした自分を、パッと見た感じで英語が話せない人間であると判断したのか、自分に関する情報を、自分に直接聞かずに、現場にいた他のスタッフから聞き出しているフォトグラファーがいた。それに気づいたスタイリストの方が、そのフォトグラファーに「Tairaは英語OKだよ!」と声をかけてくれたのだけれど、それ以降も彼は自分に話しかけてくる度に、大袈裟に分かりやすい言い回しで、子どもに話しかけるかのような態度でコミュニケーションをとってきた。

そういった扱いを繰り返し経験すると、自分の英語にコンプレックスを感じてしまったり、「自分の英語はつたない」と劣等感を抱いてしまうことにも繋がりかねない。さらには、自分の英語への羞恥心や、自分が周りから対等に扱ってもらえないことへの悔しさから、「完璧な英語を話さなければ」という考えに至る人も少なくないのではないだろうか。さらには、そんな“完璧な英語”を求めるがあまり、伝えたいことがあっても、英語で意見することを躊躇してしまうこともあるかもしれない。

海外で暮らし、働いて来た経験を通して私が感じるのは、英語を第二言語として習得した方々の間では、自分の英語に多かれ少なかれ外国人訛りがあることを気にしている人が少なくないということだ。もしかすると、そうしたコンプレックスは、自分が外国人アクセントのある英語を話すことによって、英語のネイティブスピーカーたちからあくまでも“外国人”として捉えられ、対等な個人/仲間として扱われない可能性へのフラストレーションに由来しているのかもしれない。不条理に構築された言語のヒエラルキーという、自分ではどうすることも出来ない事態によって不公平な状況に立たされるのは、理不尽極まりないわけだから、そうした母語に由来する不平等に、やるせ無さや違和感を覚えるのも当然のことかもしれない。

“完璧な英語”なんてないからこそ

ところが、またその一方で、欧米を拠点とし、英語を第二言語として話す個人として、母語以外の言語を(半強制でも)学ぶ機会があったからこそ得られたことも、少なくないのではないかと思っている。言語を学ぶことは、言葉を学ぶ以上に多くのことを学習することにつながる。例えば、日本に住んでいるとお馴染みの「お疲れさま」という言葉が、英語では上手く訳せない(同じ概念で使われる言葉がないため)のはよく知られているけれど、言語学習の醍醐味は、その過程で、学習している言語に纏わる社会文化的背景もともに学べることだと思う。個人的には、そうやって二つ以上の言語を学び、活用することを通じて、母語である日本語だけの世界で生きていた頃の自分と比べて、自身の知見や視野を、より一層広げることが出来たと感じている。

私はこれまでの海外生活で、本当に多様な英語に巡り合ってきた。「イギリス英語」だって、一口にイギリス英語といえど、本当に多種多様なアクセント(訛り)があるわけで、英語に“完璧”な発音やアクセント、言い回しなんてない。また、“英語力”が叫ばれる今日の社会では、どうしてもネイティブスピーカーのような英語を話すことに重きが置かれてしまいがちだけれど、世界共通語として話される英語には多様性があるのが必然だ。そんな多様な英語のあり方は、個々のアイデンティティを反映した個性なのであって、そんな個性はコンプレックスとして抑圧されるのではなく、セレブレイトされるべきものであってほしいなとも思う。

Text: Taira