21世紀的、新しいボンド像。
ピアーズ・ブロスナンの次に、6代目のジェームズ・ボンドを演じるのは誰か? 世間の関心がピークに達した2005年、ダニエル・クレイグの名前が発表されると、それに対する反応は冷ややかなものだった。ブロンドヘアに青い目、身長は180センチ未満。それまでのボンド像と異なる外見に、「ボンドらしくない」という声が上がり、発表記者会見でのダニエルの素っ気ない態度もメディアの不評を買った。
実は、すでに『シルヴィア』(2003)、イアン・マキューアン原作小説を映画化した『Jの悲劇』(2004)などアート系の作品を中心にキャリアを築いていたダニエル自身も、オーディションを受けるのにあまり乗り気ではなかった。だが、プロデューサーのバーバラ・ブロッコリは高い演技力に隠れがちなスター性を見抜き、「彼しかいない」と考えていたという。
ダニエルの気持ちを変えたのは脚本だ。アクション演技に備えてトレーニングする一方、「悪役のように見える」というスタジオの言い分は聞き入れず、髪を染めるのを拒否して撮影に臨んだ。撮影中も否定的な報道が相次いだが、バハマのロケでブルーの水着姿のパパラッチ写真が公開されるや、世間の評価は一変。鍛え抜かれた肉体と引き締まった表情で、メディアは手のひらを返して大絶賛した。ちなみに、数あるスイムウェアからこの一着を選んだのはダニエル自身だった。
結局、15年間という史上最長のボンド役を担うことになったダニエルは、ボンド個人の内面を深掘りすることに執心した。結果、作品を重ねるごとに、諜報活動だけではないパーソナルな部分も少しずつ明かされていった。『007/カジノ・ロワイヤル』では、マッツ・ミケルセン演じるル・シッフルにリンチを受けるシーンがある。全裸で椅子に縛りつけられて鞭をふるわれる刺激的なシーンで、ボンドはダークユーモアのセンスを披露。スタジオ側は難色を示したが、プレミアで観客らは歓喜した。
演出に盛り込んだジェンダー視点。
出演にあたってダニエルは、プロデューサーのバーバラ・ブロッコリとマイケル・G・ウィルソンに「製作過程の全て」に関わることを条件としてを求めた。撮影現場で監督と話し合い、彼のアイデアが採用された場面は数多い。『カジノ・ロワイヤル』でエヴァ・グリーン演じるエージェント、ヴェスパー・リンドが、ボンドが暗殺者を倒すのを手伝った後、ドレスを着たままシャワーに打たれるシーンがある。
ショック状態の彼女にボンドが寄り添うのだが、脚本では当初、ボンドは着衣でヴェスパーは下着姿とされていた。ダニエルはこれに異議を唱え、身体が震えるほど混乱して座り込んでいるなら、服を着たままが自然だと主張した。彼の意見が採用された結果、シリーズ屈指の名シーンの一つとなった。
最新作『ノー・タイム・トゥ・ダイ』では、キャリー・ジョージ・フクナガ監督とともに、脚本チームにフィービー・ウォーラー=ブリッジを招き入れた。フィービーが製作総指揮・脚本・監督・主演したドラマ「Fleabag フリーバッグ」に注目していたダニエルは、彼女がショーランナーを務めた「キリング・イヴ/Killing Eve」シーズン1を見て、その才能に惚れ込んだのだという。
フィービーの起用は、男性優位の作風が現代の風潮とずれているという声への対応であり、安直な発想と非難する向きもあったが、「サンデー・タイムズ」紙のインタビューでダニエルはこう一蹴している。
「素晴らしい脚本家だから、我々の映画をやってもらいたいと考えただけ。フィービーのジェンダーを話題にするのは馬鹿げている」
ボンドになるための肉体改造。
ジェームズ・ボンド役に抜擢の一報を受けたダニエルは、ウォッカとベルガモットを買いに行き、自宅アパートでウォッカ・マティーニを作って飲んだという。「これが最初の役づくり」というのはダニエル流のジョークだが、歴代ボンドに比べると小柄だった彼は、徹底した肉体改造に挑戦した。
『007』シリーズで長年トレーナーを務めてきた元軍人のサイモン・ウォーターソンに、「こうなりたい」と明確な目標を示し、週7日の訓練に打ち込み、筋肉の付け方だけでなく精神面までも徹底的にトレーニングした。数カ月後の完ぺきな仕上がりには、トレーナーも信じられない思いだったそうだ。
シリーズの回を重ねるごとに、ダニエルの年齢を考慮して準備期間も長くなっていった。トレーニングは可能な限り、クランクインの1年前からスタートした。7種のエクササイズを4回繰り返すサーキットトレーニングと、最後に1000メートルを走る有酸素運動を毎日行い、14時以降は炭水化物を摂らないようにするなど徹底的な栄養管理のもと、時間をかけて怪我をしづらい身体づくりを行った。
撮影中は、午前7時にスタジオ入りして1時間ほどストレッチしてウォームアップ。8時に朝食、9時から午後7時まで数回ブレイクを挟んで撮影という強行スケジュール。その後、午後7時45分に炭水化物多めの夕食をとり、翌日の準備をして、スタジオを後にするのは午後11時ごろだ。1作目の頃は全て自分で演じようとしたが、経験を重ねるうちに危険すぎるアクションはスタントに任せて、無理しないことを学んだ。撮影期間中は休養と栄養をしっかり取るリカバリーも大切にしていた。
命を賭したアクションの数々。
6代目ボンドに抜擢された当時、ダニエルは37歳。十分な準備をして危険なアクションシーンもほとんど自分でこなしたが、負傷は避けられなかった。『カジノ・ロワイヤル』では格闘シーンで歯が2本折れ、急きょ差し歯を施して撮影を再開した。不死身のボンドを演じるためのアクションは生身の人間には危険すぎるものばかりで、撮影が一時中断されるほどの大怪我を負ったこともある。
ハリウッドの脚本家ストライキの煽りを受けた『慰めの報酬』(2008)では、脚本と監督が決まらないまま始まったアクションシーンの撮影で負傷。飛行機内でのシーンで右肩の関節唇を負傷し、その後にイタリアで窓から壁に向かってジャンプするシーンで同じ場所を強打。ダニエルは「緊張して、やりすぎてしまった。その時点で私の腕は役立たずになってしまった」と振り返っている。『スカイフォール』(2012)では撮影開始後まもなく、両ふくらはぎの筋肉を断裂、プールでリハビリしながら撮影を続けたという。
『スペクター』(2015)では、ミスター・ヒンクスを演じた元プロレスラーのデイヴ・バウティスタとの格闘シーンで膝の前十字靭帯を傷めた。手加減して演じていたデイヴに「投げ飛ばしてくれ」とダニエルが頼み、デイヴが本気を出したその瞬間、ダニエルはポキッと折れる音が聞こえたそうだ。この時も完治を待たず、膝にプロテクターをつけて撮影を続行し、ポストプロダクションの映像処理でプロテクターを消した。
この負傷はボンドを演じてきた中でも最悪のものだったという。クランクアップ直後に受けた取材でダニエルは、再びボンドを演じるくらいなら「ガラスで手首を切った方がマシ」とコメントしたほど。心身ともに疲弊した彼が、最後にもう一度ボンドを演じると決断するまで5年という歳月を要した。
最新作『ノータイム・トゥ・ダイ』でもジャマイカで撮影中にかかとを負傷し、手術を受けた。板の上を歩いている時のことだった。本人は「走ってるわけでも、アクション絡みの演技でもなかった。ただ歩いていて滑って転んでしまって、とても間抜けだった」と笑い話として語っている。
スーツやアクセサリーへのこだわり。
スーツは、2作目の『慰めの報酬』からずっとトム・フォードが担当している。ダニエルのお気に入りデザイナーで、鍛え上げた身体の美しさを強調する細身のスーツで魅せるアクションは、現ボンドのトレードマークだ。撮影で40着を超えるスーツが台無しになった時は「これは犯罪だ。毎回泣きそうになった」と回想する。
『スカイフォール』のオープニングシーンの撮影では、同じ形のスーツが85着用意された。惜しみない協力を注いだブランドに対し、ダニエルは、「トム・フォードは、エレガンス、スタイル、そしてラグジュアリーへの愛においてジェームズ・ボンドそのものです」とコメント。シャツやデニムなどのカジュアルウェアも、トム・フォードが作品の衣装担当者と共同でデザインした。さらに今作では、ラシャーナ・リンチが演じる007の後継者ノーミの衣装も手がけ、テーラーメイドのジャケットやトップス、アイウェアなどを提供している。
ちなみに最新作のメインビジュアルでボンドが着用しているアーミーセーターは、イギリスの老舗ニットブランドのエヌ・ピール(N.PEAL)のものだ。同ブランドは007 カシミア・コレクションを展開している。同じく映画のオフィシャル・パートナーを務めるオメガ(OMEGA)は、ボンドがつけているミリタリー仕様の「シーマスター300のダイバーウォッチ」を提供。そのデザインには、「007のような軍人にとって、腕時計が軽量であることは重要」というダニエルや映画製作チームの意見が反映されている。