2018年も終わりに近づくころ、ラシャーナ・リンチのもとに電話がかかってきた。電話の主はバーバラ・ブロッコリ、イギリスの敏腕スパイ、ジェームズ・ボンドの活躍を描いたシリーズで知られる著名な映画プロデューサーだ。とはいえ、バーバラは知らない相手ではなかった。ラシャーナはこのとき、バーバラが製作総指揮を手がけ、ロイヤルコート劇場で上演された舞台『Ear for Eye(原題)』への出演を終えたばかりだったからだ。だが、バーバラが電話をかけてきた目的は、謎に包まれていた。
007シリーズへの招待状がもたらしたもの。
「バーバラは映画のタイトルを告げないまま、『とあるプロジェクトについて、あなたに興味がある、(オーディション用の)テープを送って』と言ってきたの」と言うと、ラシャーナは、わかるでしょう? と言いたげにニヤリと笑う。「私はテープを送ったけれど、それから数カ月は、何の音沙汰もなかった。その後、ミーティングに呼ばれたときに、このプロジェクトは『ノー・タイム・トゥ・ダイ』だと確信したわ。それでも、自分が演じるのが通行人なのか、主役級の役柄なのかは見当もつかなかったけれど」
もちろん、正解は後者だった。32歳のラシャーナがこの作品で演じることになったのは、洗練を極めた敏腕シークレット・エージェント、ノーミだ。ボンドが一線を退き、ジャマイカでリタイア後の生活を送る中、ノーミは彼に代わり、「00」(ダブルオー、殺しのライセンス)を手にする。
やがて、ダニエル・クレイグ演じるボンドは復帰を果たすが、自らのダブルオー・エージェントとしての地位を受け継いだのが女性と知り、愕然とする。「世界は変わったの、ボンド中佐」と、ノーミは静かにボンドに告げる。だが、2019年末、こうした場面を含む予告編が解禁されると、ネット上では本来のストーリーとは全く違う憶測が飛び交った。一部のボンド・ファンが、次の007役は黒人女性なのかもしれない、いくらポリティカル・コレクトネスと言ってもやりすぎだと、ソーシャルメディアで騒ぎ立てたのだ。こうした反応は、ラシャーナにとっても予想外だったのだろうか?
凍えるほど寒いある日の午前、ニューヨークのホテルのレストランでそう問いかけると、彼女はあくまで淡々と、「これは映画の中で影響力のある役柄を演じることにはつきものなのだと思っている」と答えた。「人は変化を好まないものよ。黒人の生きざまについてあれこれ言いたがる、一握りの白人の人たちは特にね。でもこうした意見はすべて、私個人とは何の関係もない。もし別の黒人女性があの役にキャスティングされていたとしても、言われた内容は同じだったはず」
ニットドレスからスニーカー、キャスケットまで、全身黒ずくめのラシャーナは、スターらしいふるまいとは気持ちが良いほど無縁だ。インタビューの間には、何の前触れもなしに上半身をロボットのようにカクカク動かす場面も何度かあった。切れ味が鋭い、ドライなユーモアのセンスを持ち、その一方で、ウソのない、温かい心の持ち主であることも伝わってくるので、こちらがつい、心の内を打ち明けたくなる。インタビューの最後には彼女は、「私、ハグが大好きなの」と言って、私の体に両腕を回してくれた。
時間はちょうどランチのタイミングに近づいていたが、ペスカタリアンのラシャーナはこの日、やや体調が優れず、「今、私のおなかに何か食べ物を入れちゃうとちょっとね」とのことだった。そして、すぐに「ごめん、私ったらTMI(“too much information”の略で「そこまで聞いてない、そこまで聞かれてないよね」といったニュアンスを含むネットスラング)よね」とユーモアも忘れなかった。
このように、常にオープンに見えるラシャーナだが、鋼のように固い意志を持つ一面もある。答えたくない質問(例えば、私生活については決して話さないと決めている)を投げかけると、丁寧な物腰ながら、すぐに会話の流れを変えてしまうのだ。
彼女が、こうした率直な態度を身につけたのには、現実的な性格の母親と祖母からの教えが大きかったと、ラシャーナは振り返る。また、小学校、中学校、さらには演劇学校を通じて、校長が全員女性だったことも大きな影響を与えたという。「私は、『自分にもこんなことができる』と知る上で、本当に良いお手本に恵まれていた。待ち受ける障壁を突きつけられることはなかったから」と彼女は語る。女優の仕事を始めた当時も、「特定の役柄に女性をキャスティングするのが難しいとか、相手がフェミニストだからコミュニケーションが取りにくいとか、そういう話を聞いても意味がわからなかった。オープンで、女性でいることってすばらしい──そう感じて育ってきたから」
ラシャーナはジャマイカ出身の両親のもと、3人きょうだいの末っ子としてウエストロンドンで育った(母親は住宅事業に関わる自治体職員で、父親はソーシャルワーカーだった)。こうした環境から、「ここってイギリスなんだ、と感じるのは家の外だけだった」と、彼女は子ども時代を振り返る。自宅では「言葉や食べ物、ルールもすべてジャマイカ流。遠慮がないけれども落ち着いた雰囲気だった」という。学校も楽しく、特にスポーツが大好きで、「ネットボール(イギリスで盛んな、主に女性がプレーするバスケットボールに似たスポーツ)のコートでは熱くなることもあった」そうだが、外見については多くの悩みを抱えていた。
「髪の毛のことをものすごく気にしていたの。私はずっと、髪をいじることはなかったけれど、黒人の若い女の子にとっては髪型って大問題で……コーンロウやカールを試すようになったの。そのときはすごく満足していたけれど、今振り返ってみると、あれは自分じゃない誰かに、見かけだけ近づけようとしていたんだなって思う」
ラシャーナが演技に目覚めたのは、小学生の時だった。学校で上演されるすべての劇に参加し、その後、ウエストロンドンのチジックにあるアーツ・エデュケーショナル・スクールに入学する。2012年に入ると、彼女にブレイクのチャンスが訪れる。陸上の世界選手権に挑む女子リレーチームの奮闘をさわやかに描いたイギリス映画『Fast Girls(原題)』で、映画デビューを飾ったのだ。さらに彼女は、『ブラックパンサー』や『スパイダーマン:ホームカミング』のオーディションを経て、『キャプテン・マーベル』で重要な役を射止める。MCU作品として初めて女性を主人公としたこの作品で彼女が演じたのはブリー・ラーソン演じるヒロインの盟友、マリア・ランボーだった。
そして今、キャリー・ジョージ・フクナガ監督がメガホンを取る007シリーズ第25作で、ラシャーナはボンド映画にも革命的な変化を起こそうとしている。『007/ノー・タイム・トゥ・ダイ』の公開は当初4月の予定だったが、11月への延期が発表された(新型コロナウイルスの世界的流行で、映画館を訪れる観客の数は大幅に減少している。この作品の主要マーケットが中国であるという事情もあり、公開延期は興行収入の落ち込みを避けるための判断だった)。
さまざまな点でいまだに謎に包まれているこの作品だが、ひとつはっきりしているのは、ダニエル・クレイグが世界で最も有名なスパイ、ジェームズ・ボンドを演じるのは、これが最後になるということだ。この記事の執筆時点で、後を継ぐ俳優はまだ発表されていない。一部には、今後の007シリーズにおいて、ラシャーナがカギを握る存在になるとの見方もある。一方で、彼女が演じるノーミに「ダブルオー」のライセンスが与えられたのは、「ボンドを女性に」と訴える人たちに向けた、スタンドプレー的な妥協だという批判的な意見もある。この点についての質問を、ラシャーナは巧みにかわしてみせる。「私をめぐって起きた議論を、自分のこととして体験できることをありがたく思う。でも何を言われようとも、映画を観に来る人たちが驚きを求めていることに変わりはないわ」
仮にオファーがあったとしたら、史上初の女性のボンドになるチャンスを受け入れていたのだろうか? 「それはわからないわ」と、彼女は歌うような、鼻にかかったロンドン訛りで答えた。「その答えは、いろいろな要素によって変わってくるでしょうね。ノーミはこの映画で、あるひとつの要素を表現しているけれど、今後より多くの事柄を表現する役になるのなら、私は、黒人女性としての体験を徹底的に語りたいと思う。みんながそうした話を聞く、心の準備ができているのかはわからないけれど」
この作品の撮影中に一度、ラシャーナはプロデューサーのバーバラ・ブロッコリに、なぜ自分がノーミの役に適任だと考えたのか、理由を尋ねている。彼女によれば、バーバラはこう答えたという。「『ボンドはそこそこの年齢の白人男性で、世の中に対する彼なりの固定観念がある。彼のそうした立場では、黒人女性の歩んできた道を身をもって体験することはなかった。そこにこの黒人女性が現れて、彼が知らないことを教えるわけ』と言われたわ。バーバラがここまで率直に話してくれたこと、そしてこういう人間関係をボンド映画に加えようとする彼女の意志に、心が揺さぶられたの」
脚本を担当したフィービー・ウォーラー=ブリッジとのミーティングでは、このノーミという役柄が持つヴィジョンが、最も重要なトピックとなった。フィービーは持ち味のオフビートなユーモアを買われ、バーバラとダニエル・クレイグのたっての願いで『ノー・タイム・トゥ・ダイ』の脚本チームに加わっていた。「フィービーには、実生活で起きる、リアルな悩みを抱える女性を演じたいと訴えたわ」とラシャーナは振り返る。「もしこの役柄が、彼氏と破局したばかりだったら、それを観る人に伝えつつ、『彼女はそれでも出勤して、できる限りいい仕事をするのだな』と思わせるようにしたかった。映画のある場面で、ノーミが生理中かもしれない、と思わせるのはどう? という提案もしたわ。そうしたらフィービーも『じゃあそれを脚本に入れましょう』と言ってくれたの。この映画の彼女を見ていると、『たくさんの問題を抱えているけど、それでも最高にイケてるな!』とほれぼれする場面がいくつかあるはず。それが2020年を生きる女性の姿だと思うの」
ダニエル・クレイグと共演した感想についても水を向けたが、ラシャーナは「美しい」経験だったと言うだけで、多くを語らなかった。「私が必要としていたものは、すべて用意してくれた。彼との関係を築くために、無理をする必要はまったくなかったわ」
ダニエルが最後にボンドを演じる「感動的な」シーンの撮影現場に、ラシャーナは自身の母親を連れて行ったという。「この場面の重みを感じた。1本の映画を撮影する間に、人生が一変してもおかしくない。彼は5本の(ボンド)映画に出演したのだから、それってとてつもないことよね。彼の人生の中で、何年分もの時間を占めてきた映画なのだから。でも現場の彼は、とても慎ましかったわ。20秒ほど話すと、(低い、しわがれた声をまねて)『バーバラ、何か言ってくれ』と声をかけて、それで終わり。本当に彼らしいわ」
撮影後の打ち上げパーティーは、誰もが想像する通り、華やかなものだったという。「コヴェントガーデンにあるフリーメイソンズ・ホールが会場で、大がかりで魅力的で輝いていて、ムードたっぷりだった。誰もがマティーニのグラスを手にしていたわ。私はそれまで、マティーニを飲んだことはほとんどなかったけれど、この宴で試してみたの!」
今ではアメリカに数カ月滞在することもあるラシャーナだが、ホームグラウンドは今でもロンドンだ。しかも最近、自宅を購入したという。「私は“中身がおばあちゃんタイプ”だから、何もかもすごく地味」と言って、彼女は笑う。「キャンドルやお香、詩集が好きなタイプで、家では友達や家族とテレビ電話をして過ごすことが多いわ」
『ノー・タイム・トゥ・ダイ』をめぐる盛り上がりに胸を高鳴らせるラシャーナだが、彼女にはひとつ譲れないことがある。それは、今回のキャスティングやノーミのような複雑な登場人物の描写など、映画界に変化は起きているものの、これはハリウッドが多様性に関する問題をすべて解決した証ではない、という点だ。「たったひとつのプロジェクトで問題が解決したと考えたがる映画界の姿勢は、すごく気になっている。私は『ノー・タイム・トゥ・ダイ』がそういう役割を引き受ける作品になるのは嫌なの」と、彼女はきっぱりと断言した。「まだ何も解決していないのだから」
インタビューの終わりに、では彼女の言う「解決」とはどういう状態なのかと尋ねてみた。「映画で黒人が主役を務めることが、当たり前になり、誰も何も言わなくなったときね」と、彼女は答えた。「節目になる出来事が祝われるのをうれしく思う反面、それが節目になるということ自体が、まだまだこれが微妙な問題で、すんなりと受け入れられていないということを意味している。このロジックをひっくり返さないと。残念だけれど、ハリウッドの現状は、『この人をキャスティングしたり、この映画に資金を提供したりするのはやめておこう。今の世の中の状況をみると、これは行きすぎだ』という判断がまかり通っている。でも、私たちが率先して変化を推し進めれば、みんなもそれが当たり前なんだと、受け入れる流れが生まれるはずよ」
Profile
ラシャーナ・リンチ
ジャマイカ出身の両親のもと、1987年にイギリス・ウエストロンドンに生まれる。同地のドラマスクールで演劇を学び、初期はTVドラマをメインに活躍。2012年に『Fast Girls(原題)』で映画デビュー。17年のTVシリーズ「Still Star-Crossed(原題)」ロザライン・キャピュレット役で注目を浴び、19年には『キャプテン・マーベル』、20年には007シリーズ最新作での重要な役柄を手にするなど、躍進を続ける。
Text: Ellie Austin