“私は世界を支配したい”
アメリカのカリスマTVホスト、ディック・クラークの人気番組「American Bandstand」に出演した、当時25歳だったマドンナの発言。同年の後半には2枚目のシングルとなる『ライク・ア・ヴァージン』をリリースし、全米ビルボードの1位を獲得してスターダムを駆け上がった。一見不遜で大胆に思える発言は、マドンナのその後の大成功を予言していたかのよう。
**“私はタフで、野心家で、自分がほしいものをちゃんとわかってるの。**それが理由でいやな女だと呼ばれてもかまわないわ”
19歳で故郷デトロイトからニューヨークにやって来たとき、ポケットには35ドルしかなかったという有名なエピソードがある。成功するためにやって来たニューヨークで、時給1ドル50セントのウェイトレスや成人向け映画への出演などの仕事をしながら、有名になるチャンスを伺っていたマドンナ。売れなかったバンド時代は、ステージでの人気を独占したくて他のメンバーたちとケンカになり、バンドを辞めたことも。それほどまでに強い野心があったからこそ、1983年にファーストアルバム『バーニング・アップ』で歌手としてのデビューのチャンスを掴むことができたのだ。
**“勇敢になるとは、誰かを無条件に愛するということ。****見返りを期待せず、ただ与えること。****それは勇気がいることだわ。だって顔から思いっきり転んだり、**傷つくために心をオープンにしたい人なんていないでしょう?”
成功も名声も手にしたマドンナだが、愛では傷つき、失望する経験も多かった。この発言をした2004年当時、彼女は映画監督のガイ・リッチーと結婚していたけれど、2008年に離婚。2016年にはガイとの間に設けた長男、ロッコの親権まで失ってしまう。だが、そのあとも20歳以上年下のダンサーやモデルたちと交際し、彼らに愛を注ぎ続けるマドンナは、恋愛においてもまさに勇敢な女戦士であるのかもしれない。
“大胆に反抗しながらも、強く前向きでいることは****可能だと思うわ”
幼い頃から、厳格な父親や規則だらけの学校生活に反抗してきた人生。2015年にリリースしたアルバム『レベル・ハート』では、自身の「反抗的で挑戦的な面」と「繊細でロマンティックな面」のふたつの性格を表現している。2016年に米『ビルボード』紙が選ぶ「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」を受賞した際には、デビューしてから34年間、あからさまな性差別や女性蔑視と闘ってきたことをスピーチで語った。
“ダンスクラスでは、バレリーナたちは皆、髪の毛をお団子ヘアにしていたの。だから私は髪を短く切って、レオタードを裂いて前に垂らして、小さな安全ピンで前を止めた。先生を誘惑するためだけにね”
「ダメと言われると余計にやりたくなる」という反抗的な性格と、「神様より有名にならないと満足できない」という目立つことへの欲望。そのふたつが相まって、他の誰とも違う、挑発的な着こなしを目指してきたマドンナ。その結果、古着をリメイクしたりロザリオを重ね付けする、あの独特のおしゃれセンスが培われ、80年代には一躍ファッションアイコンとなった。
“私はセクシーよ。それはどうしようもないでしょ? セクシーでなきゃ私とは言えないの”
「子供の頃から女らしい魅力を振りまくことで多くのものが手に入ることを知っていたわ」と語るマドンナ。自分がセクシーであること自覚し、それを武器に世の中を渡り歩いて来たことをあっけらかんと認める。そんな彼女のタフな生き方は、世界中のファンたちが支持し続ける最大の理由のひとつだろう。
**“私は思春期に、常に自分が異端児のように感じていたの。****何か問題があるんじゃないかって。**だって私はどこにも馴染めなかったんですもの”
保守的なミシガン州で育ち、周りの女の子たちとは馴染めず、居心地が悪かった思春期。そんな彼女に特別な存在だと初めて感じさせてくれたのは、バレエの教師、クリストファー・フリンだった。クラシック音楽やアートにオペラ、文学を愛する彼から、マドンナは多大な影響を受けた。彼が夢を追ってニューヨークに行く背中を押してくれたところから、彼女のサクセスストーリーは始まったのだ。
“例えば髪など私の外見の変化は、そのとき私が何にインスパイアされているかの反映なの”
デビューして以来、アヴァンギャルドなヘアメイクやファッションに挑戦し続けてきた。そのインスピレーションの源は、映画や文学。黒髪のボブにして芸者のようなスタイルに夢中になっていたときは、小説「Memoirs of a Geisha」の影響を受けていたのだとか。
**“恋愛関係や子供を持つことは、**無条件に愛することを学ぶということ。それが世界をよりよい場所にするための貢献になる。子供の寝室に行って寝息を聞くのは、とても素敵なことよ”
夫ガイと結婚していた当時のインタビューで、マドンナは「いちばん大切なのは家族」と答えている。まだ幼かった息子のロッコと娘のルルド、そして夫のガイと暮らす生活は、名声のために戦い続けて来た彼女に今までになかった穏やかさと幸福感を与えたのだった。
**“思春期は、ブリジット・バルドーやグレース・ケリーのような****美しくグラマラスな女性たちを崇拝したわ。****最近では見かけないような人達をね。**私はああいうグラマーな美が復活すべきときが来たと思っているわ”
80年代には、時代のアイコンとして誰もがマドンナのファッションに夢中になった。そのマドンナが憧れ、お手本としていたのは、ブリジット・バルドーやグレース・ケリー。どちらも50年代を象徴するシネマ女優だ。1990年のヒットシングル『ヴォーグ』では、歌詞の中にグレース・ケリーの名も登場している。彼女たちのスタイルに独自のエッセンスを加え、80年代風にアレンジしたのがマドンナ流ファッションだったのかもしれない。
“ロマンスは自由であるべきよ。でも仕事では、私は自分を完全にコントロールしているわ”
この言葉通り、いくつになっても恋愛では奔放だけれど、仕事では見事なまでにストイックな姿勢を貫く。2005年には、乗馬中の事故により8箇所も骨折したにも関わらず、『ハング・アップ』のPV撮影では予定していたダンスシーンを痛みに耐えながらも決行した。
“すごく悲しいわ。誰かと結婚したら、その****相手を簡単に忘れるなんてわけにはいかないのよ”
最初の夫だった俳優のショーン・ペンは、彼女の人生における最愛の男性。出会った瞬間から激しい恋に落ちたが、パパラッチたちに常に追いかけられる生活の中で、繊細なショーンとの結婚生活が長続きするはずもなく、わずか3年半で離婚。それから25年以上経った今でも、彼女はショーンについて、「彼のような存在はいまだに居ないわ」と言及している。2016年12月のチャリティイベントでも、ステージ上で一緒になったショーンに、「あなたをまだ愛しているの」と公開プロポーズして話題になった。
“私は自分を繰り返すことは絶対にしたくないのよ”
「人々に何か新しいものを提供するか驚かすことができないのなら、ライブをやる意味なんてない」というのがマドンナの信念。ツアー前には、これまでより良いパフォーマンスを見せることができるか、かなりナーバスになるという。大スターになろうとも過去の成功に甘んじず、さらなる上を目指し、新しいものを生み出そうとする。これぞ、究極のプロフェッショナル根性だ。
**“人は必然的に禁断のものに惹かれ、興味を持つのよ。**それが人間の本質なの”
ブレイクした当時、ロザリオのネックレスを重ね付けしていたマドンナが、なぜ十字架が好きなのかと訊ねられ、「裸の男がついていてセクシーだから」と答えた有名な逸話がある。宗教や人種差別、セックスなど、あえてタブーに踏み込んだ歌詞や映像、衣装で人々を挑発するのは、彼女の計算尽くの戦略なのだ。
**“私のいちばんの弱点は不安感よ。**いつだってすごく不安なの。1日24時間、週7日、常に不安に悩まされているわ”
鋼のようにタフで自信家だと思われているマドンナの意外な一面。「私には怖いものがたくさんあるの。その恐怖心を克服するのが私の仕事よ」とも。マドンナの超人的とも言えるハードワークは、どんなに成功しても拭うことのできない不安感に打ち克つためのものなのだ。
**“私の内面を共有できる誰か。それがとても大事。**私が選んだ相手を子供たちがリスペクトできることも重要だわ”
2009年にガイ・リッチーと離婚したあとのインタビューでは、「子供たちのことは愛しているけれど、人生にパートナーは必要だと思うわ」と再婚の意志を語っていた。結婚する相手の条件について述べたのが、この言葉。
**“私にとって大切なのは、娘と本音で向き合い、****この世界の知識を共有すること。自尊心とは何か、**自分自身をどう捉えるか、どう自立していくかを教えることよ”
長女ルルドについて語った言葉。子供たちの自主性を育てるために、家ではテレビの代わりに本を与えているそう。「みんながやっているから何かをやりたい、なんて言うような子供にはなってほしくない」という、いかにもマドンナらしい教育方針。
“私には独特のスタイルのセンスがあると思う。みんな知らず知らずのうちに私の真似をしてるのよ”
マドンナの才能を最初に見出した、当時のマネージャーであるカミーユ・バーボンは、ステージでメンズのパジャマを着て、髪の毛を赤く染めたマドンナを見たときに「この子はスターになる」と確信したという。どんな奇抜なアイテムも彼女が身につけるとクールに見えてしまうセンスは天性のもの。ファッションデザイナーたちとも縁があり、彼女のステージ衣装をジャンポール・ゴルチエ(JEAN PAUL GAULTIER)が手がけたり、ジョン・ガリアーノ(JOHN GALLIANO)やオリヴィエ・ティスケンス(OLIVIER THEYSKENS)などを本物のアーティストと称して尊敬していた。
**“有名になりたいというのが口癖だった。**お金持ちになりたいと言ったことは一度もないわ”
年収80億円近く稼ぎ、最も成功した女性アーティストのひとり。そんな現在でも、貧しいワーキングクラス出身の彼女は、リッチになることに対して罪悪感があると告白し、自身が得た巨万の富を世界中に存在する恵まれない孤児たちの命を救うために使うと決意。今年2月にもマラウイから双子を引き取り、現在4人を養子縁組しているほか、支援団体のNPO「ライジング・マラウイ」を運営するなど、慈善活動に力を入れている。
“私には限界がないって気づいたの。限界というのは、いつだって外部からの、自分自身や自分の能力を信じていない人たちからの影響なのよ”
近年のインタビューでは、「やりたいことや、なりたいものに年齢制限があるなんて信じない」ともコメント。性別や年齢でカテゴライズされることに抵抗し続け、欲しいものを手にしてきた彼女が口にするからこそ、説得力のある言葉となる。
参考文献
1984年放送ABCチャンネル「American Bandstand」インタビュー
「マドンナ語録 時代を生き抜く女の言葉」ブルース・インターアクションズ
「The Oprah Magazine.」2004年1月号
「NEW YORK TIMES 」1986年6月29日号
「INTERVIEW MAGAZINE」
US版「VOGUE」2005年8月号
US版「VOGUE」1989年5月号
「INTERVIEW MAGAZINE」 2001年3月号
2012年1月放送ABC News「Nightline」インタビュー