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KOLORの阿部潤一が語る、「リアルなショーではないと伝えられないもの」。【編集長×デザイナー対談 Part.22】

今回の編集長の対談相手は、独特な色使いや異素材の組み合わせで知られるカラー(KOLOR)を手がける阿部潤一。2021年春夏シーズンよりパリコレに復帰した経緯、初の東京でのショー、そしてコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)を含む複数のアパレルメーカーでの経験など。独立前から現在までの道のりをたっぷりと語ってくれた。
KOLORの阿部潤一が語る、「リアルなショーではないと伝えられないもの」。【編集長×デザイナー対談 Part.22】

── カラー(KOLOR)には独特な色の感覚がありますよね。ヨーロッパ的なものとは違う種類の深みがあります。

実家が呉服屋だったので反物は身近にありました。今思えば、その影響があるかもしれません。よく時代劇で呉服屋の若旦那が悪者になることもあって、一人っ子なのに継ぐのはいやだったんです(笑)。でも、よく実家から不要になった半襟のサンプル帳を送ってもらい、それを色見本に生地を染めていました。だからか、僕の色合わせは和菓子っぽいなあ、と思う時がありますね。

──プレスルームのネイビーの絨毯と深味ある木の壁の色合わせも独特ですね。

2009年にオープンした南青山店もネイビーの絨毯です。こちらはコンクリートの壁や木の天井など、さまざまな質感を組み合わせています。

リアルなショーでしか伝えられないこと。

2021-22年秋冬コレクションは、八芳園の日本庭園が見える会場で開催。ランウェイでもネイビーの絨毯を使用した。Photo: Courtesy of kolor

──今年1月に初めて東京で、2021-22年秋冬コレクションのショーを開催しました。コロナ禍で東京で発表せざるを得なかったという事情もあったと思いますが、いかがでしたか?

パリで発表した2017-18年秋冬シーズンを最後に、ショーをやっていなかったのですが、実は2021年春夏から再開しようと思っていたんです。でもコロナ禍で難しくなり、映像を作りました。今季はどういう形式にしようか悩んでいた時、もし海外への渡航が可能になったら今後東京でショーをやる機会もないのかと考えたら、東京で初めてのショーを行うのも面白いのかな、と思い立って。緊急事態宣言が出て、いろいろ思うように進まないこともありましたが、無事に終えることができました。久しぶりにショーをやれて楽しかったです。

──どういう部分がいちばん楽しいと感じたのでしょうか。

音楽や会場選びも含めて世界観を作っていく緊張感はいいな、と思いましたし、リアルなショーではないと伝えられないものもあると感じました。

──リアルなショーではないと伝えられない部分というのは?

これまでずっとショー形式が採用されてきていて、心のどこかでひとつの形式に縛られるのは全然クリエイティブとは言えないのかもしれない、と思ったりしていました。しかし、服は人が着て完成します。僕らは人が着て、歩いて、素材がどう動くのかということを考えながら作っていて、それを表現するのにショーを超える形式はないのかもしれない、という気持ちがありました。そのもう一方で、新しい表現を考えなくてはという思いもあるんです。そういう意味ではコロナ禍で、皆新しい表現方法を考えざるを得なくなったのは良い機会だったと思います。

サテンドレスにテーラードジャケットのショルダー部分、シフォンスカートを大胆にミックス。ドレス ¥249,000/KOLOR

ステンカラーコートを基調に、前衣と首回りにフライトジャケットの一部をプラス。フリルやジッパーなど、相反するディテールが特徴的だ。コート ¥145,000/KOLOR

コーデュロイのスカートは、ジッパーを開けるとデニムスカートが顔を出す。スカート ¥68,000/KOLOR

──今回(2021-22年秋冬)のコレクションについて教えてください。

7、8割はオーソドックスで、残りで集中して新しい表現をしよう、と思いました。フライトジャケットにフェミニンなフリルやレースが入ってくるとか、トレンチコートからスポーツウェアに変化していくというような。

──異なる要素を「付けた」というよりも、動きがある感じがしますね。「流れていく」みたいな。

侵食していく、みたいな感じで作っていきたい、とは思っていましたね。違うものを無理やりくっつけるのですが、溶け込むというか。メンズのテーラードジャケットがトレンチコートに入り込んでいって、さらにライナーが見えてくる、みたいな。どこかカオスな感じがありながら、全体的にひとつにまとまっているようなイメージです。トレンチコートやボタンダウン、ステンカラーコートといったスタンダードなアイテムを基本的に使うことが多いです。すでに固定的なイメージがあるものを使うことで、どこか心地よい違和感を残しやすいということもあります。

──東京の人々の前で発表するということについてはどういう思いがありましたか?

東京で開催するからには、例えばファッションを勉強している学生といった、パリでカラーのショーを見ることができない人たちも招待したかったんです。でも緊急事態宣言が出て会場の収容人数を大幅に削減しなければならなくなり、それが難しくなってしまいました。残念だったな、とは思いますね。ぜひ別の機会に実現できれば嬉しいです。

コム デ ギャルソンでの経験。

──アンダーカバー(UNDERCOVER)を手がける高橋盾さんは、1991年にコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)ヨウジヤマモト(YOHJI YAMAMOTO)が東京でメンズコレクションを発表した合同ショーの時の高揚感を思い出して、自分たちの世代も何かできないかと考えたそうです。その思いが、2018年にサカイ(SACAI)と開催した合同ショーのプロジェクトの始まりだった、と語っていました。ファッションを愛し、ファッションの仕事をしたいと思っている若い人に見てもらいたい、と。

そうなんですね。実は僕、その1991年のショーのバックステージで仕事をしていたんですよ。

──その時はどのブランドに所属されていたのですか?

渡辺淳弥さんがデザインしていた頃のトリコ コム デ ギャルソン(TRICOT COMME DES GARÇONS) でパタンナーを務めていました。翌年ジュンヤ ワタナベ コム デ ギャルソン(JUNYA WATANABE COMME DES GARÇONS)がスタートして、トリコを担当しているメンバーの中から数人が選ばれて、その中に僕もいました。最初の2年ぐらいは企画、パターンのスタッフは5、6人くらいしかいなくて、生産や営業はトリコのチームが同時並行で行う、という感じでした。コレクションのコンセプトからショーの音楽まで、皆で考えていました。僕の友達にギターを弾いてもらって、それをショーで流したり(笑)。ものすごく大変でしたけど、半分楽しいという感覚でした。

──小さなチームでの「手作り」のブランド立ち上げだったんですね(笑)。

デビューコレクションの時は、渡辺さんと2人でロンドンに行きました。毎日古着屋でツイードのコートとトレンチをゴミ袋3〜4袋ぐらい買って、ホテルに戻ったらパッキングして東京に送るんです。それらを分解し、再構築して服を作りました。窓を全開にして作業していたんですけど、アトリエ中がすごい匂いだったみたいで、他の部署からクレームが来ました。困難を1つ1つクリアしてものづくりをするのはすごく勉強になりましたね。

──実地訓練の学校のようで、大変だけどワクワクする楽しさがありますね。

渡辺さんとは歳が3つくらいしか離れていなくて、上司というか先輩みたいな存在で。怒鳴り合いのような言い合いになる事もよくありました。30年近く前の話で、ふたりともだいぶ若かったですが、そういうことがあってもお昼は毎日一緒に行っていました(笑)。

──コム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)の方々は、黙々とあまり感情をあらわにせずに働いているようなイメージがありました。

みんなが本当に真剣だったんです。

──若い人たちで構成された小さいチームだったから感情をぶつけ合う部分もあったでしょうけど、一からの立ち上げに参加できたのは本当に貴重な経験でしたね。

いい学校のような存在です。大切なことをたくさん教わりました。

──コム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)在籍中に川久保さんと直接やりとりされたことはあったのですか?

在籍中はブランドも違ったので、ものづくりで直接のやり取りはなかったです。イタリアのセレクトショップのディエチ コルソコモ(10 corso como)とコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)のショップ、「ディエチ コルソコモ・コム デ ギャルソン」でカラー(KOLOR)を取り扱ってもらうことになり、その際に別注商品を展開することになって、初めてちゃんとものづくりについてお話ししました。もう二度とコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)の敷居をまたぐことはないだろうな、と思っていたんですけど、懐かしかったです(笑)。

──在籍していた時と川久保さんの印象が変わったりしましたか?

怒られちゃうかもしれないですけど、在籍中よりも優しい印象です。ものづくりに対しての考えは昔から変わっていないと思います。

──コラボレーションをする時、川久保さんの中には自分のクリエーションと相手の仕事にクリアな線引きがありますよね。だからドーバー ストリート マーケットのようなプロジェクトを広げていくこともできるのだと思います。

そうですね、きっちり線引きしているように感じます。作り手側の意思を尊重してくれます。

独立、そしてパリコレへの挑戦。

2枚をレイヤードしたようなジャケット。前身頃の太いスティッチもアクセントに。ジャケット ¥128,000 パンツ ¥40,000/ともにKOLOR(メンズアイテム)

わざと2種類のVのラインをずらしたデザインのニット ¥50,000/KOLOR

複雑な構造や異素材ミックスは、スニーカーにも落とし込まれている。ランダムにパッチワークを施したようなスニーカー ¥46,000/KOLOR

──独立しようと思ったのは、やはり自分自身の世界を作りたいという欲求がすごく高まってきたから、という感じだったのでしょうか。

その通りです。それで1994年に僕を含めて4人のデザイナーで「PPCM」というブランドを作りました。10年くらいすると個々にやりたいことができてきて、別々で活動することになり、2004年にカラー(KOLOR)をスタートさせました。

──カラー(KOLOR)を始める時は、どういうブランドにしようと思われていたんですか?

ワイズ(Y's)やコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)などのアパレルメーカーで仕事をしたかったのも、パリコレとかショーといったものが最高峰にあると思っていたからなんです。PPCMを立ち上げた時、そんなすごい先輩方がいるのに自分たちで何か新しいことなんてできるのだろうか、と悩んだのですが、今まで信じていたものを全部疑ったら新しいコンセプトが出てくるのでは、と考えました。当時若かったこともあって、東京でショーをやって売り上げが伸びて、それでパリコレに行って、みたいな価値観を持っている限り、新しいことなんかできない、と思っていました。だったら、僕らはデザイナーの名前も出さないし、ブランドコンセプトも言わない、取材も受けない、パリでのショーも目指さない、みたいなスタンスにしました。

ホンダやソニーはすごいことをやっている企業ですが、「ウォークマン」を誰が作ったのか皆知らない。製品で会社が評価されるという方が健全なんじゃないか、と考えたんです。そうして意固地になってモードの中心から外れていることがかっこいい、という風に思っていたのですが、カラー(KOLOR)をスタートさせてからはショーをやらないとか、パリを目指さないとか、そういうことにこだわっていること自体小さいな、と考え直しました。パリのPRからも勧められて2012年1月にショーを開催することになったんです。

──初のパリコレ参加はどうでした?

ショーに関わるのはコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)に在籍していた時以来だったので、懐かしい感じはありました。

──パリコレでのショーを中断されたのはなぜなのですか?

ファーストルックから5体は強さがないといけない、といったことを考えるようになり、ショーのために服を作っているような気がしてきたんです。そこでたとえばムービーを作るなど、ショーではない方向を考えないと自分自身が変わっていかないと思いました。そうするとだんだん消費者の方に向けてデザインすることができるようになりました。同じことをルーティンでずっとやっていってこれでいいんだ、と満足するのはよくないと感じていて。一定期間が経ったら、異なる環境に身を置いてアウトプットの仕方を変えていく必要があると思うんです。

「日本製」へのこだわり。

──日本で生産されているのですか?

ほぼ日本ですね。生地屋さんや縫製工場も長く付き合っているところが多いです。

──日本の生産拠点が風前の灯火だ、とよく聞くのですが、厳しい状況なのだと思います。

コロナ禍ということもあり、いい話はありませんね。染めや整理といった加工を手がける工場が少なくなっているのが問題です。色々な産地でこういった現象は起こっています。

──日本のファッション産業を守り、もっと盛り上げていかなくちゃいけない、といった話はファッション関係者と話していて常に出るのですが、どのような方法が一番有効なんでしょうか。

大企業が海外生産に切り替えているので、僕らが頑張っても焼け石に水というところはあります。僕が日本で生産しているのは、仕事がしやすいからなんです。ニュアンスが伝わりやすくてコミュニケーションが楽だし、タイムラグがない。そこが自分にとって心地がいいので守りたいという気持ちがありますけど、外国でストレスなく同じように作れるのだったらそこを選択するかもしれない。現場の人たちも変わっていかないといけないのかもしれません。

──内発的に変わろう、生き残ろうとすることが第一ですね。

うちはこれしかやらない、やったことがないから無理、という姿勢の工場さんもあります。すごい技術を持っているけど、仕事が減っているので洋服に切り替えたい、という呉服の織り屋さんにアドバイスを請われたことがあるのですが、変えられないことが多いと難しい。ただシルクで織って洋服で使ってください、と言われても難しい。それなりの覚悟がないといけません。

──変わろうという意志がなければ、周りにはどうすることもできませんね。

生き残っている人を見ると、ばっさり何かを切って新しいことをしています。

──今、デザイナーの皆さんも耳にタコができるような状況になってきているんじゃないかなと思うのですが、海外マーケットでは特に、サステナブルであることを問われる時代になっています。それについてはどのように考えて服づくりをされていこうと思われますか?

なかなか難しいですが、エコで、さらにこういう風合いも出せます、という素材も出てきていて、以前よりは選択肢が増えているのは確かです。まだ全然少ないですが、ポリエステルを再生できるプラントも。たとえば廃棄衣料を科学的に分解して、劣化しない、繰り返しリサイクルすることを可能にした日本環境設計の技術はすごいなと思います。劇的に変わっていくにはテクノロジーの進化と受け皿が必要ですが、少しずつ整っていくんじゃないでしょうか。僕らも今後廃棄衣料をプラントに送ることを考えていますが、受け皿がまだ全然少ないと聞きました。廃棄しない方法も考えないといけないですよね。

──生産計画にも関わる問題です。きちんと計画的に売って、喜んで長く着てもらえる、という流れができるのが理想的ですね。

消化率を上げることが一番ですし、過剰生産は避けていきたいですね。

── 今日はありがとうございました。阿部さんの服作りのルーツにも触れるお話がうかがえてとても楽しかったです。

ありがとうございます。

※KOLOR 2021-22年秋冬コレクション をすべて見る。

プロフィール

1965年生まれ、文化服装学院アパレルデザイン科卒業。ワイズ(Y's)やコム デ ギャルソン(COMME DES GARÇONS)など、複数のアパレルメーカーを経て、1994年に独立。学生時代の同級生4人とともに「PPCM」をスタートした。2004年にブランド解散後、同年にカラー(KOLOR)を始動。2012年秋冬からはパリコレクションで発表している。

Interview: Mitsuko Watanabe Photos: Koutaro Washizaki Text: Itoi Kuriyama