1950年代から80年代にかけてアメリカのファッションシーンを牽引した伝説のデザイナー、ロイ・ホルストン・フローウィック(以後、ホルストン)の人生を描いたNetflixの新ドラマ「HALSTON/ホルストン」が、5月14日に配信スタートした。
戦後のアメリカンファッションを切り拓いたデザイナーのひとりとしてモード史にその名を刻むホルストンは、自身の名を冠したブランド、ホルストン(HALSTON)を1961年に設立。ニューヨークのパーティーシーンの中心人物としても、当時のメディアを大いに騒がせた。
本作では、全5エピソードにわたってドラッグや金銭トラブルに左右された彼の人生がドラマティックに描かれている。主役を演じるのは、ユアン・マクレガー。「アメリカン・ホラー・ストーリー」(2011〜)や「glee/グリー」(2009〜2015)などのヒット作で知られる名プロデューサーのライアン・マーフィーが製作指揮を執り、かつて"Halstonettes(ホルストンネッツ)”と呼ばれたホルストンの取り巻き軍団のひとり、俳優のライザ・ミネリを演じるクリスタ・ロドリゲスやレベッカ・ダヤンをはじめ、錚々たるメンバーが脇を固める。
もっとも記憶に残るシーンは? と聞かれたクリスタ・ロドリゲスは、ホルストンとライザが出会うシーンを挙げてこう答えている。
「ホルストンとライザが出会った時、彼はすぐさま彼女の身体にシーチングをかけてドレスをつくり始めたそうです。本作の中でもこのシーンは印象的に描かれていて、ホルストン役のユアンは実際に立体裁断のトレーニングを受けたんです。劇中でぜひその成果を観てほしいのですが、一枚のテキスタイルと数本のピンだけで私の身体に最高にフィットしたドレスが見事に出来上がりました」
ホルストンが築いたアメリカンファッションの基盤、そして彼がリードした70年代ニューヨークのカルチャーシーンを忠実に描写した本作を観る前に、彼の“リアル”な人生を振り返ろう。
サンフランシスコ出身のホルストンは、帽子職人としてキャリアをスタートした。アメリカの老舗デパート、バーグドルフ・グッドマンの帽子デザイナーとなった彼は、瞬く間にニューヨークのハイソサエティの顧客たちを魅了し、そこにはジャクリーン・ケネディも名を連ねている。1961年のジョン・F・ケネディの大統領就任式で、彼女がオレグ・カッシーニによるブルーのコートに合わせたホルストンのピルボックスハットがきっかけで、彼は一躍、全世界が注目する若手デザイナーに躍り出たのだ。真ん中のくぼみが印象的なこのハットは、後に多くのブランドが類似品を生産することになるのだが、このくぼみは風の強かった就任式で帽子を固定するために偶然できたものだったという。ホルストンは、「多くの人が真似をして、わざと帽子にくぼみを作るようになった」と振り返っている。
その8年後、自身のウィメンズブランドを立ち上げた彼は、「すべてのアメリカ人女性に自分がデザインした服を着せたい」という野望とともに、当時アメリカで主流だったコルセットやロングドレスなどのヨーロピアンなシルエットからの脱却を図る。リラックスしたデイリーウェアに着目したホルストンは、洗濯機で洗えるスウェード地のシャツや脚を露わにしたホットパンツなどを提案し、あらゆる制限から解き放たれた独自のラグジュアリーを確立。当時のファッション業界に大きな変革をもたらした。
ビジネスの成長とともに、ホルストンはニューヨークのソーシャルシーンに頻繁に顔を出すようになった。彼の友人で、"Halstonettes(ホルストンネッツ)”の中心メンバーだったライザ・ミネリは、自身のゴッドマザーであり元祖マルチタレントのケイ・トンプソンを通じて、彼との親交を深めた。ライザはこう当時を振り返る。
「私たちはすぐに意気投合し、連日のファッションパーティーに一緒に出かけるようになりました」
やがて彼女は、ホルストンの自宅であり、当時のファッション業界人のたまり場であった「101」に頻繁に出入りするようになり、毎日のようにニューヨークの伝説的クラブ「スタジオ54」で夜通し遊んで過ごすようになった。
"Halstonettes(ホルストンネッツ)”には、ほかにも、エリザベス・テイラー、アンディ・ウォーホル、ビアンカ・ジャガー、シェールなど当時を代表するアイコンたちが名を連ねた。彼らが「Studio 54」でともに過ごす様子を捉えた数々のスナップ写真は、70年代ニューヨークのポッププカルチャーを象徴するものだ。中でも、ホルストン主催の「ホワイトパーティー」でライザ・ミネリとビアンカ・ジャガーがクラブ内で鳩を放っている写真は、伝説的な1枚として今も語り継がれている。
誰もが羨むような華やかな人生を歩んでいたホルストンだったが、1973年にアメリカの大手企業ノートン・サイモンにブランドを売却したことを機に、彼のビジネスと私生活のバランスは徐々に崩れはじめていく。売却後もホルストンはブランドのクリエイティブディレクターとして采配を振るい、フレグランス、メンズウェア、革小物など部門を広げ、順調にビジネスを拡大していった。また、ブラニフ航空の制服や1976年のモントレアル五輪のアメリカ代表チームの公式ユニフォームを手がけるなど、外から見る限り彼のキャリアは順風満帆そのものだった。しかし、1980年代に突入すると7度に渡って売却が繰り返され、1984年にはブランドの全ラインのクリエイションから外されたと同時に、自身のブランド名の権利をも奪われることとなった。
しかし彼は、それを見越していたかのように、1982年にアメリカの大手百貨店チェーン、J・C・ペニーとパートナーシップを締結。これは今でいう、ラグジュアリーブランドとストリートブランドのコラボの先駆け的な決断だった。しかし、当時としては異例のこのコラボは鳴かず飛ばずで、ホルストンの地位を失墜させただけでなく、多大な社会的・精神的なダメージを与える結果となった。
ホルストンの側近であり、衣装デザイナーから『セント・エルモス・ファイアー』(1985)や『ロストボーイ』(1987)などで知られる映画監督に転身したジョエル・シューマッハは、当時をこう回想する。
「1960年代は誰もが何か創造的なことをしていて、オリジナルを創り出そうと必死だった。そして、みんながドラッグの常習者でもあった。1960年代をなんとか生き延びたとしても、ある日突然、自分がただの麻薬中毒者であり、もう平和を愛する魂をもたないことに気づかされた。しかし、ホルストンは私の人生の中で、最も愛情深くて親切な友人のひとりだった」
その絆を象徴するように、シューマッハが初めて衣装デザインを担当したジョーン・ディディオン監督の『Play It As It Lays(原題)』(1972)では、ホルストンがオリジナル作品を惜しみなく提供している。
1990年、ホルストンはエイズ関連の合併症で、故郷カリフォルニアで静かに息を引き取った。57歳だった。しかし彼は、その短い人生の中で、そしてわずか20年のデザイナーとしてのキャリアの中で、豊かな表現力と大胆な決断力を武器に、世界に驚くほどの遺産を残した。女性の日常や装いに与えた彼の影響は計り知れない。そして、今のファッション業界の基盤を築いた先駆者のひとりとして、永遠に語れ継がれていくだろう。
Text: Julia Hobbs