美の巨人、マン・レイに弟子入り。
人生とは時に不公平なもので、生まれながらにすべてを手にしている人が、この世には確かに存在する。今回ご紹介するリー・ミラーもその1人で、美貌、頭脳、才能、共感力のすべてを兼ね備えた女性だった。
実は若い頃、創刊間もない『VOGUE』の誌面を飾るトップモデルとして活躍した経歴の持ち主だ。当時の最高クラスのフォトグラファーからひっぱりだこだった彼女は、カメラというテクノロジーについても熟知し、「モダンガール」の象徴となった。その一方で、優れたアーティストでもあり、プロに代わってファッションスケッチを手がけることも多かった。しかし、自らの天職と考え、心血を注いだのは写真だった。この情熱は、アマチュア・カメラマンだった父親から受け継いだものだった。
そして1929年になると、NYを離れ、パリへと渡る。その目的は、新進気鋭のシュールレアリスト、マン・レイのもとに向かい、彼のアシスタントになることだった。いわば押しかけのような形でマン・レイのもとに転がり込んだリーだったが、その後2人は公私ともにパートナーとなることに。彼を一躍有名にした写真術、ソラリゼーション(モノクロ写真の白と黒が反転する現象)の考案にも、リーの協力があったようだ。
パリでの生活の中で、彼女はパブロ・ピカソからジャン・コクトーまで、幅広いアーティストと親交を結び、本当の自分を見つけていく。自らのアーティストとしての本性に気づき、マン・レイと別れ、NYに戻るのだった。再びNYを拠点とした彼女は、次々と作品を発表し、自らのスタジオもオープンする。フォトグラファーとして大きな成功を収めた彼女のもとには、世界各国のクライアントからの引き合いが殺到し、さらには自らの作品を集めた展覧会を開くまでになった。
だがこうした成功にも飽き足らず、すべてを投げ出してエジブト出身のビジネスマンと結婚する。夫とともに一時期、カイロで生活したが、1937年には再び、若き日を過ごしたパリに戻る。ここで出会った画家のローランド・ペンローズと交際を始めると、彼とともに画期的な作品の数々を発表していく。一方でフォトグラファーとしての活動を再開し、時代を代表する写真家として評価を得る。
何が彼女を揺れ動かしたのか──戦場の最前線へ。
さらに、第二次世界大戦が勃発すると、彼女は戦場カメラマンとして戦地へ赴き、戦争の悲惨さを余すところなく記録した。実はこのミッションは、我がコンデナストからの依頼によるものだった。その後も『VOGUE』からの依頼でカメラマンの仕事を続け、戦争の恐ろしさを現地から写真で伝えた。だが、この体験は彼女に深いダメージを与えた。その後戦地を離れ、イギリスで暮らし始めてからも戦争の場面がフラッシュバックし、長い間、深刻な鬱病に悩まされることになる。
その後リーは、夫となったペンローズとともにイギリスの農場に転居する。この農場にはさまざまなアーティストが訪れ、彼らにとってもいわば第2の我が家のような拠点となる。彼女は息子を出産して母となり、さらにシェフとしても腕を磨いた。
しかし、そんな彼女に鬱病の影が再び忍び寄り、その人生は暗転する。リーは70歳になった1977年、自宅で息を引き取る。死因はガンだった。彼女の作品が影響を与えた対象は、グッチをはじめとするブランドから、故アレキサンダー・マックイーンのようなデザイナーまで、実に幅広い。
生前、自己アピールにはほとんど興味を示さなかったが、それは創作活動や作品こそすべてと考えていたことの現れだ。この世で、あらゆる美とあらゆる恐怖を体験し尽くした。しかもどちらにおいても、彼女は超一流だった。ジャーナリストが尊敬するジャーナリスト、フォトグラファーが憧れるフォトグラファー。アイコンであり、数世代にわたり、この先の道を指し示した先駆者。
これほどまでに活躍し、自らの心に正直に生きつづけたヒーローはめったにいない。リー・ミラーこそ、そうした数少ない女性の1人であり、その恵まれた才能すべてを活かし、生き抜いた。その功績は、今に生きる私たちにも受け継がれている。
Text: Gene Krell