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「自分を知るためには、自分に戻る必要があった」──26歳の写真家、ペトラ・コリンズの新境地。

26歳という若さながら、グッチ(GUCCI)をはじめとするラグジュアリーメゾンからセレーナ・ゴメスといったミュージシャンまで、一流のクライアントを抱える超売れっ子フォトグラファーのペトラ・コリンズが、不気味で美しいセルフポートレート集を発表した。フィルターで歪められた自分自身を取り戻そうと、彼女は自分にレンズを向けた。

ネオンの光に照らされた表情、蒸し暑い午後、鏡の中の自分を見つめる少女......。写真というメディアを通して、ガーリーでドリーミーな世界観を描き出してきたペトラ・コリンズは、現在26歳。過去12年間、いつも「自分ではない他の誰か」を切り取ってきた彼女が新作で被写体としたのは、他の誰でもない「自分」。どうやら彼女は、人生の新たな節目を迎えたようだ。

「私はずっと、人物の写真を撮ってきた。十代の少女から大人へと成長したと思うわ」

どこか達観したような口調でそう語るペトラが最初に注目を集めたのは、まだティーンエイジャーだった頃。Tumblrに投稿した同じ年頃の少女たちを捉えた作品が、タヴィ・ゲヴィンソンによるオンラインマガジン『Rookie』で紹介されると、たちまち世界の注目を集める存在となった。

ファッション界が、彼女のような才能を放っておくはずはない。グッチ(GUCCI)リアーナフェンティ(FENTY)といった一流メゾンの広告や有名メディアでの撮影、カーディ・Bセレーナ・ゴメス、カーリー・レイ・ジェプセンなどのミュージックビデオも手がけ、彼女は瞬く間にスターダムにのし上がった。

実像と虚像のはざま。

そして今年、彼女は『Miért vagy te, ha lehetsz én?』(ハンガリー語で「あなたが私になれるなら、あなたは誰?」の意味)という意味深なタイトルを冠した作品集を発表。そこでは、彫刻家のサラ・シッキンが手がけたシリコン製のペトラの分身を用い、彼女が彼女自身をつぶさに観察するというようなメタな演出がなされている。

「私の悪夢、夢、願望のとおりに、私の身体を配置したの」

胴体と切り離されて雪の上に並べられたペトラの手足、さまざまなマスクをかぶって友人や家族と並ぶペトラ。まるで白昼夢を見ているかのような一連の作品は、どれも不気味で儚く、美しい。

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本作は、ペトラがしばらくの間あたためてきたプロジェクトだ。はじまりは、ネット上での人間のあり方に対して疑義を抱きはじめたこと。ペトラ自身、最初はスマフォ一つで簡単に自分をプロデュースできるセルフィーはポジティブな進化に思えたが、次第に、人の道を踏み外しているのではないかと考えるようになった。

「自分の顔を自在に修正できるフィルターによって、私たちは、もはや自分の真の姿を忘れかけている。世界中で個性の尊重が謳われる一方で、私たちは自分の虚像の中で生きているように感じるわ」

女性の身体に対する「検閲」も、本作のテーマの一つだ。ビキニからはみ出た陰毛のクローズアップ写真をインスタグラムに投稿した2013年、彼女は、女性の身体が社会に監視されているような感覚に襲われ、このソーシャルメディアから姿を消した。

本作『Miért vagy te, ha lehetsz én?』の製作中も、彼女は幾度となく「編集したい」という願望に飲み込まれそうになったが、どうにか抗うことに成功したという。そうしてペトラは解放された。

「シリコンで『もう一人の私』を制作していたとき、サラは幾度となく『この吹き出物はどうする? この毛は取り払った方がいい?」と、必要ないと思われるものをどう処理すべきか尋ねてきたの。だから私は、『全部消して大丈夫』と答えたんだけど、その後すぐに『やっぱりそのまま生かして』と訂正したわ。人の精神が肉体の中に存在する限り、ありのままの姿を大事にしなければと気づいたの」

ライアン・マッギンレーと身体性。

これらの作品を見ていると、どうしても、シンディ・シャーマンやジリアン・ウェアリングのようなセルフイメージをテーマに活動するアーティストとの類似点を見つけたくなる。しかし、ペトラにもっとも影響を与えたのは彼女たちではなく、フランスの哲学者ジャン・ボードリヤールによる現実とイメージに関する論文『シミュラークルとシミュレーション(Simulacres et simulation)』(1981年)や、ヴィム・ヴェンダースによる写真旅行記『Once』(2001年)といった書籍。両書ともに、写真というものがどれだけ主観的で、どれほど特殊で奇妙な媒体であるかを論じた作品だ。加えて彼女は、本作を通じて、ライアン・マッギンレーの作品がもつ身体性についても再考したという。

「彼の作品に出合うまでは、性的に捉えられた裸の写真しか知らなかった。だから、ライアンが風景の一部として人間の身体を撮影した写真は、本当に革新的だと思った。19歳のとき、ライアンと一緒に旅することになったの。私が本当に苦しんでいた時期だったから、その苦しみを文字通り解放する必要があった。私たちは、日の出から日没までずっと全裸で、納屋の上から飛び降りたり川の急流を下ったり、森を駆け抜けたりしていたわ。自分の身体をあれほど自由にコントロールして、愛したことはなかった」

写真に宿る「身体性」という意味でも、ペトラは被写体の身体にどんな服を纏わせるかを考えるのが大好きだという。

「子どもの頃の私にとって服は遊びであり、非日常に連れていってくれる存在だった。いまは私のイメージづくりにおいて、色や形、素材感が、とても重要な役割を担っているわ。服は、時間の流れやムードを伝えるだけではなく、写真のすべてを物語るもの。だから私は、服を単なる写真の一要素ではなく、他の要素と調和しながらストーリーを伝える存在にまで持っていきたいと考えているの」

再び、スタート地点へ。

そして彼女はいま、新しい挑戦に踏み出している。詩人で作家のメリッサ・ブロダーと共同執筆し、ホラーの長編映画に取り組んでいるのだ。

「ホラーはずっと好きなジャンルだったから、すごく楽しみ。この作品は、セレーナ(・ゴメス)と1年前に作った『Love Story』というタイトルの短編作品に近い雰囲気になるはずよ。いま考えれば、あれは楽しい序章といったところね」

来年は香港で、本格的な個展も控えている彼女。新作作品集では撮影者と被写体の両方を務めることで自身を客観的に眺めわたし、映画製作という未知なる世界に勇敢に切り込んでいこうとする彼女にとって、怖いものなどもはやないように思える。

「次のステップみ進みたいし、より多くのイメージを生み出したい。そして、自分のテーマとは何かを深く掘り下げたい。そのためには、自分自身に戻ることが一番重要だとわかったの」

Photos: Courtesy of Petra Collins Text: Rosalind Jana