クラシック音楽、日本文化体験、ガストロノミー体験を一つに
応永4(1296)年、鎌倉幕府第9代執権の北条貞時により創建された覚園寺。古い森に囲まれた境内は、中世鎌倉の面影を残し、鎌倉に数多ある寺院の中でも訪れる人を魅了する古刹として知られる。その覚園寺が、一夜限りのクラシックコンサート会場に。演奏者は、現代のフランスを代表するピアニスト、ミシェル・ダルベルトと、鎌倉市出身でフランスを拠点に活躍する鈴木隆太郎の二人。鈴木がパリ国立音楽院に学んだ時代に師事したのがダルベルトで、故郷での師弟共演となった。コンサートの前後には、鎌倉市長谷のイタリア料理店「オルトレヴィーノ」のオーナーシェフでソムリエの古澤一記による、カクテルパーティとディナーも催された。
前例のない試みを企画、運営したのは日欧米を拠点に新規事業に取り組むグローバル企業「Exa Innovation Studio」だ。9つものプロの交響楽団が存在し、最高品質の音響設備を誇るホール施設があり、世界の音楽家が公演を切望する東京のクラシック文化に着目。ローカルに目を向ければ、歴史ある社寺や庭園、文化施設などが各地に存在し、両者を結び付けてユニークベニューとすることで、日本の知られざる魅力を世界に発信しながら、真の文化体験を求める海外顧客を日本に招き、観光地の高付加価値化に寄与することが狙いだ。当日は、フランスから本イベントのために来日した顧客や日本在住フランス人を含む32人がゲストとして参加した。
嗅覚、味覚、そして聴覚……。感覚を研ぎ澄ますプログラム
10月下旬の開催日は、穏やかな晴天に恵まれた。午後3時、到着したゲストは、覚園寺住職の案内で、香道を体験。コンサート、そしてディナーと、聴覚、味覚が主役の楽しみを前に、嗅覚を研ぎ澄ます時間を、という住職の粋な計らいだ。白檀に伽羅と順を追って聞くうちに、室内が雅な香りに満たされる。フレグランスにワインと、日本人以上に常日頃から香りの文化に親しむフランスの人々にとっても、新たに拓かれる香りの世界であるとともに、華道、茶道と並ぶ日本の伝統文化に触れる貴重な体験となった。
お香の体験後は、カクテルパーティへ。野趣と洗練を併せ持つ庭園に用意されたのは、フィンガーフードとスパークリングワインを中心としたアペリティーヴォの時間。参加者同士も瞬時に打ち解け、会話に花が咲く。紅葉にはまだ早い鎌倉の10月だが、少しずつ日が陰りゆく夕刻、秋の浅い光に照らされる深い緑が華やかな時間に彩りを添えた。
薬師三尊が見守る本堂での、荘厳かつ親密なピアノコンサート
コンサートが行われた鎌倉で最大の茅葺建造物である薬師堂は、薬師如来坐像を中心に薬師三尊が安置された覚園寺の本堂である。河合楽器製作所のプレミアムグランドピアノ「Shigeru Kawai SK-7」が、演奏者とゲストの到着を静かに待っていた。漆黒の艶やかな鏡面が荘厳な像を、戸口から射し込む日没間際の空と緑の濃い陰影を映し出す。誰もが、これまで一度も目にしたことがない夢のような景色に、しばし立ち尽くす一瞬。薬師三尊が一座を見守る中、厳かに演奏が始まる。鈴木によるクロード・ドビュッシー「映像:第1集」から、ダルベルト、鈴木の連弾でガブリエル・フォーレ「組曲『ドリー』」へと続く。二人の連弾は、初めてとのことだ。
【全曲目】
クロード・ドビュッシー:映像 第1集(鈴木龍太郎)
Ⅰ Reflets dans leau
Ⅱ Hommages à Rameau
Ⅲ Mouvement
ガブリエル・フォーレ:組曲「ドリー」Op.56より(4手連弾)
第1曲 Berceuse
第4曲 Kitty-valse
クロード・ドビュッシー:映像 第2集(ミシェル・ダルベルト)
Ⅰ Cloches à travers les feuilles
Ⅱ Et la lune descend sur le temple qui fut
Ⅲ Poissons d’or
モーリス・ラヴェル:組曲「マ・メール・ロワ」(4手連弾)
第1曲 Pavane de la Belle au bois dormant
第2曲 Petit Poucet
第3曲 Laideronnette, Impératrice des Pagodes
第4曲 Les entretiens de la belle et de la bête
第5曲 Le Jardin féerique
プログラムは、ダルベルト自身が会場の写真をもとにイメージし、この日のためだけに構成したものだ。経験豊かなダルベルトにとっても、これまでのキャリアで最小の会場であったという。だが、「会場規模だけでなく、音響、ほかすべての特性を踏まえ、生かしながら、自分の音を奏でるのが私の仕事」と、演奏後に話してくれた。仏音楽業界ではファッション通としても知られるダルベルトは、「演奏会の話もいいけれど、次はグラビアで頼むよ」と、『VOGUE JAPAN』へのリップサービスも忘れない。連弾について鈴木は、「一緒に一つの作品に取り組むためには、師と弟子という線を超えなくてはならない。その意味で自分自身にとっても重要な機会となりました」と、話した。
王道のイタリア料理で、和と鎌倉を味わうディナー
オルトレヴィーノによるディナーも、この夜のもう一つのハイライトだった。神奈川県指定の重要文化財「旧内海家住宅」が、一夜限りのレストランに変わる。旧内海家住宅は35年前、保存を目的に覚園寺に移築された宝永3(1706)年建造の木造寄棟造の民家で、この場で料理が提供されるのも初の試みだ。ダルベルトの希望をもとに設けられた料理のテーマは、「和食ではなく、クラシックなイタリア料理でありながら、和や鎌倉を感じるもの」。
「フュージョンという選択肢は自分の中にはないので、あくまでイタリア料理で。私自身、生まれも育ちも鎌倉、長谷の店も14年目になるので、鎌倉の食材は熟知しているつもりですが、ゲストの多くが海外からお越し頂くのに、鎌倉にこだわり過ぎても、テーマの実現には及ばない。熟考の末、信頼できる仲間たちに声をかけて協力してもらいました」と、オルトレヴィーノの古澤一記は話す。
結果、群馬県川場村で「ヴェンティノーヴェ」を営む竹内悠介、舞夫妻、鎌倉の和食店「皿のうえ」の田中司、のぞみ夫妻、オルトレヴィーノの開業時から長くスタッフとして働いた春日萌と市内の飲食店でサービスマンとして働く偉宏の夫妻、そして古澤の妻であり、オルトレヴィーノのマダムであり、イタリアのアンティーク商としても名高い古澤千恵がメンバーとして集結した。
「海外のゲストに“和”を伝えるために、日本ならではの季節感と、洗練された魚食の文化が不可欠と考えました。群馬県川場村で店を営む竹内夫妻は、日本の豊かさの象徴でもある里山の四季と、その恵みを熟知している。同時に悠介シェフは、肉のスペシャリストでもあります。魚の扱いは、私が一番の信頼を置く田中さんに依頼することに。覚園寺の素晴らしい景観、建物を生かしながら、今回の会にふさわしい会場をしつらえたのは、妻の千恵の仕事です」
近年、トップシェフによるさまざまなレストランイベントやポップアップ企画が増えている中、その潮流とは距離を置き、店舗でのサービスを基本とする古澤だが、今回の依頼を受けた経緯について、次のように語った。
「単にコマーシャルなイベントならば自分たちの出る幕ではないと思っています。が、イタリアに長く暮らした経験から、古城などの史跡、文化遺産などとクラシック音楽をはじめとする芸術、そして美食が融合したときに生まれる何かが、どれほど素晴らしいものであるかは記憶に刻まれていて。今回、日本でその実現に挑む機会になるのではないかと考えたのです。ディナー会場について、厨房設備の整った客殿よりオペレーションが難しい旧内海家住宅での開催に私たち自身がこだわったのも、そのような理由からです」
パリを拠点に活躍するExa Innovation Studioマネージングディレクターの方健太郎は、「日本ではパリ・コレクションの名で知られているパリのファッションウィークの、日本×クラシック音楽版として定着させたい」と話す。パリ・ファッションウィークは、市内のあらゆる場所を舞台にしたファッションショーを軸に、展示会やアフターパーティなどを含めた一大イベントとして、各国のVIPやセレブリティ、メディア関係者が定期的に集まる、国際文化交流の場として機能しているからだ。
国際的な舞台での仕事を知る鈴木と古澤、そして方。自身と、演奏者、料理人が、同じ出身地である鎌倉の地に集い、覚園寺にて第1回を開催したことは必然のようだ。コロナ禍を経て海外からの旅行者が戻る中、日本の真の価値を発信する試みが続いていくことを願いたい。
Photos: Jiro Ohtani Text: Kei Sasaki Editor: Mina Oba