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祝63歳! 俳優ダリル・ハンナ、80年代のイットガールが明かす美の哲学とエイジングとASD

『ブレードランナー』のプリス役で大きな注目を集め、ゴージャスなプラチナブロンドのヘアが美しいマーメイド役を演じた『スプラッシュ』で、80年代世界を魅了した俳優ダリル・ハンナ。63歳を迎えた現在も、デビュー当時そのままのナチュラルな美しさで常に注目を集める彼女は、直近のインタビューで自閉スペクトラム症(ASD)であることを公表した。そして現在、事実上俳優業を引退し、監督業と環境活動家として尽力する彼女が明かす、美の哲学とエイジングと、ASDとの向き合い方とは。

揺るぎないナチュラルビューティー

人間の世界で見るものは、すべて生まれて初めて。成人の姿でありながら心は幼女のようという純粋無垢で好奇心旺盛なキャラクターを映画『スプラッシュ』(1984)で熱演したダリル・ハンナ。Photo: Courtesy Everett Collection

「少し前に、ビーチで海から上がってきた私をパパラッチがとらえた写真がメディアに出回りました。髪を後ろになでつけ、ノーメイクの私の目が腫れぼったいというだけで、“ダリル・ハンナは俳優として終わった”と書かれていたのです。実際、そのせいで仕事を失ったので訴訟も考えましたが、アメリカではその発言に悪意があるかどうかを証明しなければならないので、とても面倒だったのでやめました」

かつてイギリス「デイリーメールオンライン」にこう語った俳優のダリル・ハンナ。1960年12月3日、米イリノイ州シカゴに生まれた彼女の代表作といえば、1984年のロン・ハワード監督/トム・ハンクス共演映画『スプラッシュ』だ。この作品でマーメイド・マディソンを演じた彼女の美しく知的なブルーアイ、抜群のスタイル、そしてトレードマークのゴージャスなブロンドのウェービーヘアに、80年代多くの女性たちが憧れた。

『スプラッシュ』は、都会に現れた人魚と、その人魚に一目惚れしたトム・ハンクス演じる青年が巻き起こす騒動を描くラブロマンス・ファンタジー。公開当初世界を一世風靡した。Photo: SPLASH, Tom Hanks, Daryl Hannah, 1984, Courtesy Everett Collection

そんな彼女は、デビュー当時からビューティーに関しては“ナチュラル”にこだわり続け、バブル全盛のハリウッドで多くの俳優が当たり前のように美容整形を受ける中、彼女だけはずっと自然体のままでい続けたことでも知られる。

「LAには美容整形をしている人がたくさんいます。ですが、私には全員同じ“マペット”(人形)のような顔にしか見えません。私は、美容整形にはリスクが伴うから、美容上の理由だけで自分の健康を危険にさらすことは決してしたくないのです。もちろん、私も鏡を見て「どうしよう!」と思うことは多々あります。ですが、美容整形をしなくても生きて行くことは可能ですし、命を救うものではないことで外科手術を受けるのは気が進まない。以前私は膝と肘の手術を受けました。だから、健康上の理由以外で自分の体にメスを入れることにとても抵抗があるのです」

40歳という年齢の壁

2023年第65回グラミー賞授賞式での笑顔のショット。Photo:Amy Sussman/Getty Images

まったく衰えを感じさせない姿に、往年からのファンから驚きの声が。Photo: Lester Cohen/Getty Images

「マネージャーから、製作側が今回の役には22歳から25歳くらいの女優を欲しがっていると伝えられました。最近演じたい役柄に出会っても、必ず「あなたは年をとりすぎている」と言われるようになり、以前のようにもう役を選ぶことはできなくなりました。なんでもいいから、役をもらえるだけでありがたい、と思わなければならないことがつくづく嫌になる。でも、これが“年齢の壁”という現実なのです」

2000年、舞台「七年目の浮気」に出演中にこう語ったダリルは当時39歳。1978年にブライアン・デ・パルマ監督の超常現象ホラー映画『ザ・フューリー』でスクリーンデビューを果たした彼女は、リドリー・スコット監督『ブレードランナー』(1982)、オリバー・ストーン監督『ウォール・ストリート』(1987)等錚々たる監督作品に出演し、『スプラッシュ』一躍トップ俳優へと上り詰めた。そして、クエンティン・タランティーノ監督『キル・ビル Vol.1』(2003)と『キル・ビル Vol.2』(2004)では、暗殺者エル・ドライバー役でサターン賞助演女優賞を受賞するなど、輝かしい功績を残している。だが、そんな彼女も例に漏れず、40歳を手前にハリウッドの手痛い洗礼を受けることとなった。

「これ以上まともな役を得ることができないなら、あと数年だけ俳優をして終わりにします。もう「年をとりすぎた」と言われることにはうんざり。だったら、彼らは一体私を何歳だと思っているのでしょう? 80歳? それとも100歳?」

エイジングとともに熟成する内面

2007年、米メリーランド州ボルチモアで開催されたVirgin Festにて。開催にあたり、ヴァージングループ会長のリチャード・ブランソンに対し、環境に優しいものにするよう提言。スピーチではゼロ・ウェイスト思考の”グリーン・ボルチモア”について強く観衆に訴えた。Photo: Tim Mosenfelder / Getty Images

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一方で、この“現実の壁”こそが、幼少期に触れた大自然や本当の自分のあり方など、自身の関心が実はショービジネスにはなかったことに気づかせてくれた、とも。

「80年代のメディアには、最新の服とメイクを施されたモデルたちが溢れかえっていました。まるで、私たちに“あれも買え、これも買え”と煽り立てるように。ですが、年齢を重ねるにつれ、そのために資源や環境が脅かされていることに危機感を覚えるようになったのです。私は今次世代のために、この地上から減りつつある資源を守るために最善を尽くしたい。そして、私たち一人ひとりが、地球への影響を減らさなければならない──そう思うようになったのです」

現在は事実上俳優業から引退し、もっぱら監督業に専念しているダリルはまた、環境活動家として自身のインスタグラムでもさまざまなメッセージを発信している。そして、健康で持続可能な地球の未来のための活動を展開するドイツ・ハンブルグのNPO「ワールドフューチャーカウンシル」のメンバーとして政府に訴えるなど、日々環境保護活動に尽力している。

母の存在と自閉スペクトラム症

80年代、人気絶頂の頃のダリル・ハンナ。トレードマークのゴージャスなブロンドがゴールドのドレスによく映える。Photo: Bob Riha Jr / Getty Images

Bob Riha Jr

美しいブロンドヘア、透き通ったブルーアイ、そしてポーセリンのような肌。グラマラスなヘアスタイルがトレードマークだったダリルに、80年代の女性たちは皆憧れた。

Photo: Ron Galella / Getty Images

「私は、赤ちゃんの頃から体をせわしなく揺らしていました。そして、いつも自分の世界に閉じこもっていて、他人とあまりコミュニケーションを取らなかったため、学校に馴染めずにいました。そして、ある日母に連れられてクリニックでロールシャッハテストを受けた時、私の回答を見た医師からASD(自閉スペクトラム症)であると告げられました。医師は私に入院治療を勧めましたのですが、母は私をずっと手元に置きたいと言って断りました。もしあのとき入院していたら、きっと今頃まだそこにいたのかもしれませんね」

かつて自閉スペクトラム症(アスペルガー症候群)と診断されたダリルは、AXS TVのインタビューで診断された当時のことについてこう言及した。発達障害である自閉スペクトラム症の子どもは、人に対する関心が弱く、対人関係やコミュニケーションの取り方に独特のスタイルがみられ、事実や理屈に基づいた行動をとる傾向があるという。また、臨機応変な人間関係築くことが難しく、他人から誤解されやすいという特徴もあるが、個々により差があるため、専門家のもとそれぞれのニーズに合った適切な療育・教育的支援につなげていく必要がある。彼女以外にもアーティストのアンディ・ウォーホルや俳優のアンソニー・ホプキンス、そしてコートニー・ラヴなど著名人のASD患者は多い。

2018年に結婚したミュージシャンのニール・ヤングと。14歳年上のニールは、ASDの彼女が唯一心を許して付き合い続けた数少ない“親友”だ。Photo: Matt Winkelmeyer / Getty Images

「私と同じような子どもを持つ家庭にアドバイスを、とよく言われるのですが、私はアドバイスをすることにとても抵抗があります。ただ一つ言えるのは、私の母の判断が、私にとって最高のものだったということです。母は学校を辞めさせ、私の好きな空想の世界にずっと浸ることを許してくれました。そして私のペースで、“現実”の世界に溶け込むように導いてくれたのです。この経験のおかげで、成長してから少しだけ他人とのコミュニケーションも上手に取れるようになったような気がします。ですが、今でも外交的ではないし、物忘れもひどいので、俳優という仕事を得たことは私にとってまさに“奇跡”としか言いようがありません」

こう語る彼女は、映画『マグノリアの花たち』(1989)の公開時に、オプラ本人から共演者とともにTV番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」への出演を打診されたが、断ってしまったことが今でも心残りだと明かす。

「オプラのオファーを断ったのは、きっと私は収録中に卒倒してしまうから。一対一の対談なら良いのですが、以前グループでのミーティングに参加したとき、緊張で卒倒したことが何度かあったのです。だから、怖くてどうしても出演したくなかった。このことで、きっとオプラは今でも私のことをあまり良く思っていないかもしれないですね(笑)」

数多くのこうした経験から、当時ハリウッドで“付き合いにくい人”と誤解を受けることが多かったと語るダリル。「いつも断っていたのは、私が自意識過剰で高飛車だったからではなく、ただ不安で怖かったから。いずれにせよ、名前が売れるにつれ、世界が私に注目することに常に居心地の悪さを感じていました。だから、表舞台から去ったのです」

Text: Masami Yokoyama Editor: Rieko Kosai