11月のある日、ヴェネツィアの中心部に建つパラッツォ、カ・コルネール・デッラ・レジーナのバルコニーには、少し強い風が吹きつけていた。この建物は18世紀に建てられた邸宅で、現在はヴェネツィアにおけるプラダ財団の拠点となっている。この館で、ヴェネツィア名物の運河カナル・グランデを背景に、写真撮影に臨むミウッチャ・プラダは、淡い黄緑のセーターに赤のシルクのコート(1988年に発表した自身初のコレクションからのアイテム)を合わせたいでたちだ。その明るい色彩は、灰色の空と、テラコッタ、オークル、緑青色といった色彩が溶け合うヴェネツィアの街並みと、はっきりとしたコントラストをなしている。ミウッチャは見たところ、ノーメイクのようだ。ブロンドと飴色がグラデーションになったロングヘアは洗いざらしで、柔らかなカールが肩のあたりで揺れている。そよ風で髪が広がると「まるで1990年代みたい」と、ジョークを飛ばす――そう、送風機の風を受けて髪が舞う、シンディ・クロフォードを思わせるというのだ。
その後、私たちは彼女とランチのテーブルを囲んだ。敬意を込めて“ミセス・プラダ”と呼ばれるミウッチャは、大ぶりのゴールドのネックレス2本(うち1本はライオンの頭のモチーフだ)と、メダリオンなどのアクセサリーを外し、隣のイスに置く。その様子は、儀式でまとう重い鎖型の装身具を外しているかのようだ。そしておもむろに、イタリアのマンマを思わせるしぐさでスプーンを手に取ると、ライスを私たちの皿に取り分けてくれた。ランチはシンプルそのもので、チキンのパティにチコリの蒸し煮、ほうれん草にサラダというメニューだ。ミウッチャによれば、使われている野菜は、彼女が所有するトスカーナの菜園で収穫されたものだという。「ええ、そうなんです」と言ってうなずき、今は菜園にとても興味があると語った。だがその後わかってきたのは、ミウッチャが興味を持たないものなど、この世にはほとんど存在しないという事実だ。
「ファッションは私の人生の3分の1。あとは文化、そして家族」
現在74歳のミウッチャを見ていると、私は昨年この世を去った英国の女王を思い出す。どちらも小柄な年配のレディーで、壮麗な衣装をまとい、穏やかな語り口と、人やものに示すうそ偽りのない好奇心で、女王としての存在感を示していた。ミウッチャは驚くほど心温かく、謙虚で、穏やかでメロディを奏でるような笑い声をあげる女性だ。
ランチの席では、現在このパラッツォで開催されている展覧会に話が及んだ。「Everybody Talks About the Weather(誰もがお天気の話をする)」と題されたこの展覧会は、歴史的な絵画とコンテンポラリーアートの作品、そして気候危機についての科学的情報の3つが相互にからみあい、見るものに思考を促す。ミウッチャは、自分の希望を満たすキュレーターを見つけるのが難しいと嘆く。ミウッチャはプラダ財団で、アートと学問研究をリンクさせ、ジャンルの垣根を飛び越えた野心的な展覧会を開催したいと考えている。だが実際は、フェミニズムに関する展覧会の統括をまかせられる人を見つけるのに苦労している。一見相容れない分野を一つにまとめる能力がある人物はいるのか? 複雑かつ野心的なテーマをどう来館者に伝えるべきか?――ミウッチャの悩みは尽きない。
「私は文化には魅力的であってほしいと考えています」と彼女は言う。
ランチが終わると、ミウッチャは皿をサイドテーブルに片付けるのを手伝い、重いゴールドのチェーンを再び首回りにつける。そして私たちのインタビューが始まった。
「ファッションは私の人生の3分の1を占めています」と言うミウッチャは、プラダ(PRADA)とミュウミュウ(MIU MIU)という2つの著名ブランドの創始者であり、夫のパトリッツィオ・ベルテッリと共にグローバルなラグジュアリーブランド、プラダ・グループの経営に携わっている。その年間売上高は2022年の時点で45億ドルに達し、従業員数は1万3000人を超える(プラダ・グループはシューズブランドのチャーチも傘下に収めている)。そして、もう3分の1は「文化とフォンダツィオーネ(財団)」が占めているのだという。1993年の創設以来、プラダ財団はコンテンポラリーアートの主要な支援団体となっている。「残りの3分の1は、家族と友人、そして多少の楽しみもあるかもしれません」と言ったところで、彼女は口をつぐみ、考え直す。「でも実際は、すべて重なり合っていますね。私は自分の人生を有益なものにするよう努めています」
ミウッチャは「ユースフル(有益)」という言葉が好きだ。逆に「ラグジュアリー」という言葉は、品がない印象で、好きではないという。そしてここにこそ、彼女の人生と作品に共通する難題、核心、そして分裂がある。それは、ラグジュアリーという言葉が嫌いだと語るミウッチャ・プラダ自身が、美しく高価な衣服や小物を売る、とてつもない成功を収めたファッション・デザイナーだという点だ。彼女は政治的には中道左派の立場を取り(この点を確認する私の問いかけにもうなずいてみせた)、政治学の博士号を持ち(5年間パントマイムを習った経験もある)、かつてはイタリア共産党党員として、女性の権利を訴えてデモ行進をしたこともある。
「聖職と言える職業は政治家と医師の2つだけだと、ずっと思ってきました」と彼女は語る。「とても大切な使命を帯びた知的階級(に属しながら)洋服のデザインを手がけるのは、私にとってはまさに悪夢のような選択でした。本当に恥ずかしく思っていましたが、それでもこの道を選びました。美しいものへの愛が勝ったのです」。彼女の政治的意見は、おおむね伏せられてきた。「私が働いているのはラグジュアリー・カンパニーですから」と彼女は言い、この皮肉を笑った。「私のような政治的立場をとる人間にとっては、最高の場所とは言えません。これはずっと、私の人生最大の矛盾でした」
「完璧に取り除かれるべきは、美のクリシェです。そう、変えなければなりません」
ミウッチャ・プラダは出生時の名をマリア・ビアンキといい、1949年、ミラノの裕福なブルジョワ家庭に生まれた。祖父のマリオ・プラダはフラテッリ・プラダ(イタリア語で「プラダ兄弟社」)という革製品販売店を1913年に開業し、50年代に入り母親が家業を継いでいた。
「幼いころから、私には常に人と違っていたいという気持ちがありました」と、ミウッチャは振り返る。その後1960年代には、当時若い世代を中心に盛り上がりを見せていた社会運動に身を投じたが、一方で常に洋服への愛を抱いていた。デモの際に、誰もがジーンズを着ていたのに、彼女だけがイヴ・サンローランをまとっていたというのは有名な逸話だ。
「周囲と同じことはやりたくない、というタイプの人はいますね」と私が水を向けると、「心の奥底で、そういう部分が私にもあるのでしょうね」と、彼女は認めた。
こうして、ブルジョワ家庭に育った自身の境遇に反抗しつつも、ミウッチャは1978年に母親から家業を受け継ぎ、その舵取りを担うことになる。同じ年に、彼女はとある見本市で、ライバルの革製品販売会社の創業者だったベルテッリと出会う。二人はプライベートとビジネスの両面で力を合わせ、1987年に結婚した。ベルテッリと出会ったころから、彼女はナイロン生地のバックパックのアイデアを温め始める。実用的で、軽く、耐水性があり、何より“有益”だ。
1984年に発売されたときには、ヒット作とはとても言えないほどの売り上げしかなかったが、高級ブランドが当時安い日用品と考えられていたナイロン製品を作るのは、画期的な出来事だった。ほどなくして、これはアイコニックなアイテム、ファッションにおける地殻変動を象徴する品となった。それ以降、法律上は未婚の母方のおばの養子になる形で、正式に自身の名前をミウッチャ・プラダに改め、名前の上でもブランドや家業との結びつきを強めると、1988年、彼女は初のプレタポルテ・コレクションを発表する。「ドローイングさえ描けないんですよ」と私に打ち明けるミウッチャだが、自分が着たいものはわかっているという強みがあった。そして奥行きのある教養に裏打ちされた直感を武器に、彼女はファッションの仕事に挑んでいった。
最初のショウからわずか2カ月後に、ミウッチャとベルテッリの間には息子のロレンツォが生まれた(さらにこの2年後には次男のジュリオが生まれている)。これほど激動があったブランドの初年度をどう乗り切ったのかと尋ねると、彼女は明るい表情でこう答えた。「家族の間でも、(妊娠出産と)同時に(プラダというブランドを)構築している自覚がなかったんです。たぶん、私たちは働き、アクティブでいるのが好きなのでしょう」
ミウッチャの最初のコレクションは、プラダ・スタイルの原型と呼べるもので、中間色と鮮やかな色彩のコントラストが特徴だった。ストレートカットのメンズライクなトラウザーや、ぽってりしたフォルムのラバーソールのローファー、軍服を思わせるディテールやシルエット、そしてその後まもなくシグネチャーアイテムとなる、ニーレングスのスカートなどが並んだ。
プラダは独創的だった。ミウッチャのデザインは、おなじミラノのデザイナーであるアルマーニ(ARMANI)のクリーンでストイックなシルエットや、ヴェルサーチェ(VERSACE)やドルチェ&ガッバーナ(DOLCE&GABBANA)のセクシー路線に反旗を翻していた。「女性といえば美しいシルエット、という考えには、断固としてノーと言います!」と、ミウッチャは語気を強める。「女性をリスペクトするよう努めています。バイアスドレスや、セクシーさを強調した服は作らないようにしています。日常的に着ることができ、有益なものという方向性で、創造性を発揮するようにしているんです」
そう語るミウッチャは、ナイロン素材のアイテムだけのコレクションや、自身のレース嫌いを逆手に取ったアイテムからなるコレクションを展開したこともある。「アグリー(醜い)シック」とも評される彼女の作品では、真逆の要素が衝突する――蛍光グリーンとブラウン、ボリューミーなケーブルニットと透き通る薄手の生地、レトロ趣味と未来志向、柔らかいものと硬質なもの、ハイヒールのサンダルにソックスを合わせたスタイリング、そしてブルジョワジーとクールな反逆者。さらに1950年代へのノスタルジア、1980年代のミニマリズム、忌まわしき1970年代のカラースキームなどを、遊び心を加えて取り込んできた。
「もちろん、(趣味が)悪いものはあらゆるところで目にします。映画やアート、人生でも」とミウッチャは述懐する。「でもどういうわけか、いわゆる『悪趣味』と呼ばれるものが、ファッションの世界で受け入れられたことは一度もありませんでした。当時、それはスキャンダラスなもの、ファッションに対する侮辱だったのです。今でも、ファッションは時として、型にはまった美のクリシェを披露する場になってしまいます。でも、完璧に取り除かれるべきは、美のクリシェです。そう、変えなければなりません」
「私たちは、自分がなりたい者になることができてしかるべきです。それも常に」
プラダにとって、成功は突然かつ急激に訪れた。1993年、ミウッチャ・プラダはセカンドラインのミュウミュウのデザインに着手する。ブランド名は、子どものころに家族から呼ばれていた、自身の愛称にちなんでいる。キラキラと輝き、ピンクを多用し、漫画のようなカーブを描くミュウミュウのアイテムは、ガーリーなテイストをパロディにしたもので、ミウッチャのより軽やかなアイデアを表現する場と捉えられていた。
さらに早いうちからアジアに進出し、1993年にはメンズウェアの展開を始め、1997年にはプラダ・スポーツを立ち上げた。こちらは機能性重視の素材をアーバンシックなデザインでまとめたブランドで、のちのアスレジャーを10年から20年ほど先取りしたコンセプトだった。プラダはトレンドセッターであり、人の後塵を拝したことは一度もない。常に「より面白く、新しく、大胆で、ワクワクする」ものを追いかけてきたと、ミウッチャ自身は語る。「ある意味、リスクは私の好物なんです」
「ミウッチャは自分に徹底して正直なだけなんです」と、夫のベルテッリは、妻でありビジネスパートナーでもある彼女を解説する。「疑問を追求し、好奇心を持ち、知的な正直さを備えている――あまのじゃくかもしれませんが、歴史を反映したモチーフについては非常に忠実に引用しますし、衣装に対する造詣も深いのです」。単なるフォルムと機能を超えて、プラダの服には物語があると、ミウッチャ自身は強調する。「私は人々の生活に興味を持っています。ですからこれはデザインではありません。個性や歴史、そして人生の場面をつなぎ合わせているのです――良いところも、悪いところも」
バズ・ラーマン監督の映画『華麗なるギャツビー』でミウッチャと仕事をした衣装デザイナー、キャサリン・マーティンにとっては、プラダの作品は実用的なフェミニズムを体現するものだ。その中核にあるのは「女性であることの意味――すなわちパワフルな女性、働く女性、母親、家事の担い手、そして性的な存在としての女性」だという。
「自分自身のことを考えても、私の中には数多くのキャラクターがいます」とミウッチャは言う。「それに、自分の中に個性の異なるキャラクターを抱えている人は多いと思いますよ。女性的な面、男性的な面、おとなしい面、タフな面というように」
かつて政治活動に身を投じ、大衆向けのアジテーションやプロパガンダ、抗議デモに関わっていたことを考えると、ミウッチャがファッションの世界にとどまらない、世の中の情勢を意識しているのは意外とは言えない。今でも世界では戦争や人々の苦しみが続き、危機や不公正な状況があとをたたない。「私がいつも恥ずかしく思っているのはそのせいです」と彼女は打ち明ける。それでも、目立たないながらも公私両面で、ミウッチャはがん研究など、さまざまな社会的意義のある事業を支援している。
だが、資金集めが目的でも、これ見よがしの派手なガラ・パーティーなどには及び腰で、地道な慈善事業に関わる道を選んできた。企業としても、プラダ・グループは2019年に始まった再生ナイロン素材を使用した繊維開発プロジェクトに出資している。この繊維「ECONYL(エコニール)」は、今ではプラダの製品にも使われている。また、売上の1%をユネスコとの共同プロジェクト「Sea Beyond」に寄付し、海の環境保護や啓発活動に役立てる取り組みを行っている。「これは現実的で具体的な貢献です。単なるパフォーマンスではありません」とミウッチャは言う。「本当の意味で気前よくありたいのなら、人生を通じて影響を及ぼしていく姿勢がなくてはなりません」
ミウッチャは装飾性を排した実用性を信奉している。「私は営利企業向けの衣服を作っていますし、私たちの目標は服を売ることです」と彼女は端的に語る。ミウッチャは、ジェンダーによって区分けされた衣装を作ることにそれほど興味はなく、むしろその人なりに自分自身を表現する方法を見つけてもらうことにフォーカスしている。それがひいては「自分を表現する自由」につながるというのだ。「私たちは、自分がなりたい者になることができてしかるべきです。それも常に」。彼女が強調するのは「ファッションはほんの小さな要素でしかない」ということだ。「私はそう思っています。朝起きて服を着たら、その後は何か別のことをしますよね」。彼女は自分が作る服には「有益で、(それゆえに)着たときに幸せを感じるものであってほしい」と言ったが、すぐにこう言い直した。「『幸せ』は大げさな表現でしたね」。人々に感じてほしいのは幸せよりも、むしろ「自信」だという。「人生で何かを成し遂げられるという自信です。ファッションは着る人の世界観を表現するものです。そうでなければ、ファッションなど無益だと思うからです」
「文化を支援するのではなく、文化創造の一端を担いたいと思っている」
私がミウッチャ・プラダと2度目に会ったのは、ミラノにある彼女のアパートだった。彼女は今でも生まれ育ったのと同じ建物で暮らしており、上階のアパートメントには、親族の住まいもある。私は執事が開けてくれた門から、丸石が敷き詰められた緑豊かな中庭を抜けて、アーチ型の天井を持つモダンな部屋に向かった。広々とした部屋の空間は、巨大な書棚で4つのスペースに仕切られ、来客が座れるようになっている。ジュエルトーンの布地を張ったソファが置かれ、近代や現代アートの大きな絵画が、壁に色彩のブロックを作り出す。グリーンのヴェルヴェット地を張ったヴェルナー・パントンのクローバーリーフ・ソファは、シャギーな黒のラグの上に置かれていた。隣のスペースは通路兼ギャラリーとなっていて、手術器具をガラスケースに収めたダミアン・ハーストの作品が飾られ、小さな庭へと通じている。
私たちは昔の世界地図が描かれたテーブルのあるブースに座った。ミウッチャはカップに入ったハーブティーをすすっている。周囲を取り囲む本を眺めながら、私は彼女に「今何を読んでいますか?」と尋ねた。すると彼女はにわかに活気づいて立ち去ると、すぐに5冊の本を小脇に抱えて戻ってきた。女性とレジスタンスの歴史、ファシズムの歴史、20世紀前半のイタリア人作家、クルツィオ・マラパルテが書いた政治小説「クレムリンの舞踏会」、子どもの絵がしおりがわりに挟まれているシュレーディンガー選集からの1冊、そして分厚い哲学書というラインナップだ。最後の哲学書は「とてもわかりやすいと友人に教えてもらって」と、彼女は笑う。「今は3分の1を読破したところです!」
プラダ財団は、ミウッチャ・プラダの知的好奇心を表現する場として機能している。彼女はコンテンポラリーアートについて学ぶために、異例とも言えるほどの金額を費やしてきた。そのための手段として「本を読み、アーティストと対話をしました。親しい友人になった人も多いですよ」と彼女は言う。さらに、アートを理解するため、自ら作品の購入もしている。だが「コレクターという概念を私は忌み嫌っています」と彼女は断言する。「私にとっては、これも学んでいく過程の一部でした」。これまで、プラダ財団が催す展覧会に自身がどの程度関与しているかについて、ミウッチャはあまり多くを語らず、ファッションブランドのプラダとは切り離した形で、財団が地位を確立できるよう努めてきた。だが現在では、ディレクターの役割を担っていることを公表している。「残された人生をもっと政治的に、効率よく過ごせるように努めているところです」と、彼女は言う。
プラダ財団がミラノに拠点をオープンしたのは2015年のことだった。レム・コールハースと彼の建築事務所OMA(ニューヨークのソーホー地区にある、プラダの店舗の印象的なインテリアも手掛けている)が構想と設計を担ったこの建物は、今は使われなくなった醸造所の周囲に建築され、冷ややかさと温かみが絶妙にミックスされた、実にミウッチャらしいしつらえだ。光り輝く白い塔は、大理石の粉末を混ぜたコンクリートで仕上げられている。地震対策として追加された梁は、オレンジ色にペイントされた。元からあった醸造所の建物(「ホーンテッド・ハウス(お化け屋敷)」という名がつけられている)は24金の金箔で覆われている。「ポディウム」と呼ばれる展示スペースはガスを注入した、スポンジのような外観を持つアルミニウムパネルで覆われている。そして、「ゴダール」と名づけられた映画館の屋根には、自然の植栽を生かした庭が広がる。
壮観で、非現実的にすら見える財団の建物に足を踏み入れ、漆黒の闇が広がる、カルステン・ヘラー作の迷宮を手探りで抜け出すと、その先の展示室では、幻覚を引き起こすキノコが上下逆さに吊るされ、回転している。また、死んだハエを使ってキャンバスに描いたダミアン・ハーストの作品にも驚かされるはずだ。さらに100人乗りの巨大なエレベーターで上階に向かえば、ミラノの街の全景と、そして背後に広がる鋸状のアルプス山脈の山並みを望むことができる。
これまでにプラダ財団の11のプロジェクトで作品が採用されている、ドイツ人アーティストのトーマス・デマンドは、同財団のミラノ本部を「パブリックな言説」と表現する。「他のどんなところにもない、知的な文物を見ることができます。アートが私たちの人生に役割を果たしていることを伝えようとしている場所です」。財団では、新たなアート作品を発注し、コンサートや映画の上映会、シンポジウムも主催している。だがアートのパトロンという言葉も、ミウッチャは好まない。「文化を支援していますよね、と言われたときには『違います。私たちは文化創造の一端を担いたいと思っているのです』と答えています。大事なのはお金ではなく、さまざまな取り組みや人々をまとめ上げ、ソリューションを提案し、見つけていくことなのです」と彼女は言う。
ミラノにある財団の建物は、工業地域の再生の先駆けとなっただけではない。ミラノの街自体をコンテンポラリーアートの聖地にしたのだ。土曜日には、このスポットは、散歩や会話を楽しむ人でいっぱいになると、デマンドは証言する。「ミラノの人たちはこの場所を、コルソ(イタリア語で「遊歩道」)として使っているのです」
このインタビューの前夜、ミウッチャは伝説的なオーケストラ指揮者のリッカルド・ムーティをもてなしていた。ムーティはプラダ財団で一般の聴衆を前にした一連の講義を行うため、ミラノを訪れている。「信じられないほど興味深い人です」とミウッチャはムーティを評する。「指揮の構成、指揮者であることの意味などについて話してくださいました。一つ一つのフレーズ、音符に、多くの意味が込められているという話でしたよ」
同じ日の晩、私はプラダ財団の展示スペース「オッセルヴァトーリオ(「展望台」の意)で開催された展覧会のオープニングに出席していた。このスペースは、ミラノのショッピングアーケード、ガッレリア・ヴィットーリオ・エマヌエーレIIにある、プラダのフラッグシップストアの屋根裏に設けられている。「Calculating Empires(帝国を計算する)」と題されたこの展覧会は、人工知能(AI)が社会に及ぼす意義についての先駆的な研究で知られるケイト・クロフォードが共同キュレーターを務め、工業化が進んだ過去5世紀にわたる、テクノロジーと権力の関係を考察する。プラダの定番のプリーツスカートにキルトのバックルを合わせたいでたちのクロフォードによれば、この数日前に、ミウッチャはサーペンタイン・ギャラリーのディレクターを務めるハンス・ウルリッヒ・オブリストの案内で、この展示会を視察し、即座にメインの作品の意図を把握したという。この作品は、コミュニケーションやコンピュータによる計算、量子力学、アルゴリズム、建築などの複雑なつながりを解き明かした大作だ。さらにはこのつながりを、カール・マルクスによる、19世紀の生産手法の分析と比較している。
「働くことは、思考方法や考えを伝えるために最適な方法」
ミウッチャは知識の取得に貪欲で、常に学び、考え、動き続けているが、その一方で、話をしていると実に穏やかで面白く、よく笑い(笑う対象は自分であることが多い)、話をじっくりと聞き、自身の意見にも疑いの目を向ける。インタビューでも、自らの見解を述べたあとで「これは物議を醸すのでは」と心配し始める場面が何度もあった。
「本当に頭が良く、多くの考えが頭にある人は、他の人との会話の中で、それを磨き上げたいと思うものです」とキャサリン・マーティンは言う。「ミウッチャはまるで、“一人サロン”のようです」。ミウッチャ自身は、人との付き合いは非常に少ないタイプだと言うが、これは実態とはかけ離れているようだ。「母は人と付き合うことそのものを目的としていないだけだと思いますよ」と、息子のロレンツォ・ベルテッリは語る。「視点の異なる人たちとやり取りするのが大好きですから」
「話をするより、仕事をする方が私には向いています」とミウッチャは言う。「誰かをもっと知りたいと思えば、一緒に仕事をするようにしています。熱意を注ぎ、リサーチをする――私は働くことが好きです。思考方法や考えを伝えるためには、最適な方法ですから」
彼女の周囲には、さまざまなジャンルの第一人者が揃っている。ミラノのプラダ財団に併設されるカフェを、ピスタチオグリーンとピンクの2色にデザインしたのは映画監督のウェス・アンダーソンだ。これは伝統的なミラノのカフェへのパロディーの意図を込めたオマージュだった。フランスとスイスの国籍を持つ映画監督、故ジャン=リュック・ゴダールは自身のアトリエ兼リビングルームを寄贈し、これが今ではプラダ財団で展示されている。アバンギャルドな作風で知られる建築家のジャック・ヘルツォークは、パートナーのピエール・ド・ムーロンと共に設計した、格子状の外観が目を引くプラダ青山店ビルディングについて、「インタラクティブな光学装置」だと表現している。また、コンクリート造りのミウッチャ・プラダの洗練されたオフィスを1階と結ぶのは、ヘラーが作成した滑り台だ。一方、ハーストはプラダとのコラボレーションで、虫をあしらったハンドバックをプロデュースした。
トーマス・デマンドは、ミウッチャと初めて会ったときのことを回想する。このとき、彼は複雑な構造を持つインスタレーション作品をどう実現したらいいのか、考えあぐねていたが、ミウッチャは、彼の悪戦苦闘を見て、ハンドバッグをデザインする際の苦労を思い出したと述べたという。デマンドによると、ミウッチャは「試しては失敗し、製造工程を検証し、完成品が自分が求めているものにならなかったので、没にするというプロセスを経験していた」という。「彼女は身を持ってこうした体験を味わっていたうえに、率直でした」と、デマンドは言う。
ミウッチャは自身が、知的分野の仲介者の役割を果たしていることを認め、少し悲しげな様子で、知識は年齢を重ねたことで得られたものだと語った。解説よりも知識の探究を楽しんでいる様子のミウッチャだが、「良いものは見た時に笑みがこぼれるのでわかる」とも明かしてくれた。
「自分は15歳の少女だったかしら?それとも死がすぐそこに迫っているおばあさんなのかしら?」
プラダは本質的にファミリー・ビジネスだ。そしてプラダ=ベルテッリ家を動かしているのは、話し合い、議論、そして知的な対話だ。ミウッチャと夫、息子との会話は、すぐに哲学や文献学の領域に入っていく。息子のロレンツォによれば、異なるものの見方が合わさる方が、良いものが生まれるのだという(彼はまた、よほどしっかりと事前に理論武装しておかない限り、母ミウッチャの考えを変えるのは難しいとも証言している)。
「私は根気強く頑張るのが好きです。たゆまぬ努力によってこそ、人はよりクリエイティブに、より知的になれるからです」とミウッチャは語る。
私は夫のパトリッツイオ・ベルテッリに、なぜ妻とのパートナーシップがこれほどの成功を収めているのか?と尋ねてみた。すると彼の返事は「同じ質問を、しょっちゅう自分にも問いかけていますよ」というものだった。「私たちは、有名になりたいとか、金持ちになりたいといった気持ちで仕事をしたことはありません。興味深く建設的なことをする喜びのために働いてきました。そして仕事を楽しみ、愉快な気持ちになるためです」
二人はファッションのクリエイティブな部分とビジネスの部分をそれぞれに担い、一代で強力なグローバルブランドを築き上げた。プラダ・グループは香港証券取引所に上場しているものの、今でも株式の80%はプラダ家が所有している。現在70代になった夫妻は、スムーズな事業承継に向けて慎重に手はずを整えている。昨年にはアンドレア・グエラがプラダ・グループの新たなCEOに就任した。また、息子のロレンツォがテクノロジー、マーケティング、サステナビリティ部門を統括し、新たに立ち上げられたファインジュエリー部門も率いている。ロレンツォはかつて自らのチーム「ファック・マティエ」を率いるプロのラリードライバーだったが、2017年にプロレーサーの道を退き、プラダ・グループに入社した。
2020年に、プラダは著名ベルギー人デザイナー、ラフ・シモンズが同ブランドに加わり、対等のクリエイティブ・パートナー、コラボレーター、そして扇動者としてミウッチャとともにデザインを手がけると発表し、ファッション界を仰天させた。
なぜこのオファーを受けたのかとシモンズに尋ねたとき、彼が理由として挙げた言葉はたった1語だった。「ミウッチャです。簡単な話ですよ」
コラボレーター兼クリエティブパートナーとなったミウッチャ同様、シモンズも服飾学校に通った経験がなく(専攻はインダストリアルデザインだった)、「ファッションへの興味よりもアートへの興味のほうがずっと大きい」と公言する人物だ。二人はかなり以前からお互いの仕事ぶりを高く評価する間柄で、自身のコレクションには現実性、実用性、意味、そしてもちろん、有益性が必要だと述べてきた点も共通していた。「両者のうちどちらか一方が提案したアイデアを、もう一方がどうしても受け入れられないのなら、そのアイデアはやらない」というルールで始まったこのコラボレーションだが、二人とも口を揃えて、ふたを開けてみると、この共同作業はまさに二つの頭脳の出会いだったと語る。
「とてもうまくいっています」とミウッチャは言う。「趣味が一致しますし、まったく同じアイデアを考えているケースがほとんどです。ラフはとても感じがいい人ですし、知的で率直です。これは一番大切な資質ですね」
ラフも「信じられないほどうまくかみ合いました」と言う。「僕たちはどちらも、対話を重んじるタイプなのだと思います。彼女はコラボレーションが好きで、人と一緒に働くことが好きです。たぶんそういう機会を必要としているのだと思います。好きなもの、嫌いなもの、バカバカしいもの、笑えるもの、悲しいもの、ふざけたもの、政治的なもの――彼女となら、何でも出発点になります」
ミウッチャは、自分の年齢を非常に強く意識していると打ち明けた。「おかしな気分です。毎朝起きるたびに、自分は15歳の少女だったかしら?それとも死がすぐそこに迫っているおばあさんなのかしら?と考えるのですから」。しかし彼女の創造にかける情熱は、みじんも衰えを見せない。ラフ・シモンズとのコラボレーションは、コマーシャルな要素をクールさと巧みにブレンドし、批評家から高い評価を得ている(現時点で最新のコレクションでは、スライムが流れ落ちるセットをバックに、ミリタリーモチーフとトランスペアレント素材の新たな解釈を披露した)。
また、ミウッチャが単独で手がけるミュウミュウのショウを見ても、最先端かつ時流をしっかり抑えている。ハサミで切り落としたラインが印象的なミュウミュウ2022年春夏のアイテム(ミウッチャ自身はショウのあと「性的に敏感なゾーンについての私なりのジョーク」とコメントしていた)は、TikTokで大いに拡散された。また、ショウのランウェイではモロッコ生まれのアーティスト、メリエム・ベナーニの映像作品が映し出された(ミウッチャが自身のショウに世界各地のアーティストを招聘し、会場で上映する動画作品を作るよう依頼するケースは、この数シーズン増えている)。
「何もかも、一から勉強しないといけないことばかり」
若き日のマリア・ビアンキは人と違った存在を目指した。その後、ミウッチャ・プラダと名を変えた彼女は、良き人となり、良いことをするために懸命に努力し、さらに自分を磨き、善行を積もうと突き進んでいった。黄金期を迎えたミセス・プラダは、満足感に浸ってもおかしくないが、それでも本人は決して満足していないようだ。「『ファッション界で成し遂げた成功に満足していますか?』と聞かれることがあります。でもそういうことには、本当に、心底、関心がないのです」と彼女は言う。「私が考えるのは、次に何をするべきか?ということです。私には志があり、いい人でいたいと思います。時に、自分がいい人に思えることがあります。すばらしい展覧会、素敵な衣服ができたときです。でもそれはほんの一瞬です」
自分に誇りを持つのが難しいタイプだと、彼女は認める。
「『まずまず』というレベルでは十分ではありません」と彼女は言うと、思ったほどのレベルに達しなかった、過去のある展覧会に言及した。「私にとっては、あれは失敗でした」。自身が手がけるブランドの店舗に立ち寄るのも避けているというが、その理由は「自分の想像しているレベルがあまりに高くなっているので、現実を見るのが怖いから」だという。
私は彼女に、「ブランドである」ことは難しいですか?と尋ねた。
「実際にやることは、別に難しくはありません」と彼女は答える。「なぜなら、基本的には自分たちが好きなことだからです。コンセプトをつくるのはとても簡単です。でもそれを生き、体現し、責任を持たなければなりません」。純粋にクリエイティブな取り組みに集中できるのであれば、ぜひそうしたいと彼女は言う。「ファッションの仕事だけに集中して1日を過ごせたら――まるでヴァケーションのようですね!」 だが実際には、常に多くの決断すべき事柄や要請を抱え、「毎日、クリエイティブ面で解決しなければならない案件が少なくとも20はあります……。今抱えているのは、中国の春節にまつわる問題ですね!」 どうやら、店舗のショーウィンドウのディスプレイについて、誰も良いアイデアが浮かばない状況のようだ。
「あなたは、この決断に関わっているんですね?」と私は尋ねた。
「私はすべてに関わっていますよ!」
そう聞いて、私は「あなたは完璧主義者に違いありませんね」と声をかけた。彼女はこれまでにも何度か、こう指摘されているはずだ。
すると彼女は「おそらくは」と、私の指摘を認めた。「そうですね」
自身の人生を占める残りの3分の1、「家族と楽しみ」の部分について、ミウッチャの口は重い。これまでのインタビューでも、私生活の詳細に触れたものはごくわずかで、それも他愛のない話が多い。自然の中で過ごすのが好きで、特に山を好むこと、自分で髪を切っていること、毎朝起きると真っ先に白湯をカップ1杯飲むのが習慣だ、といった話だ。今回のインタビューでは、プライベートについてはごくわずかながら以下のような話を明かしてくれた。夫と息子たちは料理に夢中で、かなり以前にキッチンから追い出されてしまったこと。南イタリアにある家で、サボテンなどを植えたエキゾティック・ガーデンを作ることを計画していること。ここ数年で身近な人を何人か亡くしたが「最近は気力を取り戻した」ことなどだ。これを聞く限り、彼女のプライベートは、他の人と同様に、豊かでさまざまな出来事に満ちているのは明らかだ。
彼女の立場になって考えれば、ガードが堅いのは無理もない話だ。ミウッチャはグローバルブランドの顔として広く知られる存在だが、ソーシャルメディアにはまったく関与しない姿勢を貫いている。テレビ出演もまれで、人前では多くを語らず、ランウェイ・ショウのフィナーレでも、手短におじぎをすると、カーテンの向こうに消えるのが慣例になっている。
「非常に控え目に見えますよね」と、夫のベルテッリも言う。「でもこれは私的な部分をどこまで見せるか、という問題です。妻は別に引っ込み思案ではありません」
私はベルテッリに、あなたの妻を幸せにするものは何ですか?と尋ねた。「仕事をしているときは幸せですよ」というのが、彼の答えだった。「素敵なことをするときは幸せです。旅をしているときも幸せです。知的な人たちと時間を過ごすときは、幸せです」
息子のロレンツォによれば、ミウッチャは家族といるときが一番幸せなのだという。この家族には最近、新たなメンバーが加わった。ロレンツォにとって最初の子どもとなる娘だ。「今は孫ができて、母はとても幸せです」と、ロレンツォは言う。
孫娘について尋ねると、ミウッチャは満面の笑みを浮かべた。
「何もかも、一から勉強しないといけないことばかりです」と彼女は言う。「今の教育についてもよく知らないですしね。それに幼い子どもがメディアやスマホとどう接していくべきか、という問題もありますし、詳しく知るのにどうしたらいいのかわからないほど、いろいろな議論があります。あの小さな子を教え導いていく責任が、私にはありますから」と彼女は言い、そしてこう続けた。
「私はきっと良い(おばあちゃんに)なるでしょう。私はいろいろと教えはしますが、楽しいところもあるはずです」
Photo: Stef Mitchell
Produced by Kitten Production.
Photographed at Fondazione Prada, Ca’ Corner della Regina in Venice.
Tailor for Miuccia Prada: Ombra Renzini.
Text: Wendell Steavenson Translation: Tomoko Nagasawa Adaptation editor: Shunsuke Okabe
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