少し前なら、スター調香師と言われるのは概ね男性で、かつ歴史ある産地である南仏・プロヴァンスのグラース出身であったり、古い時代からの世襲で家督を継ぐ形で調香師になったりといった例が目立っていた。しかし、今、その潮流に大きな変化が。メゾンの香水部門のクリエイティブのトップやヒット作の裏に、女性調香師のいるケースが増えてきた。そんな今の時代を担う彼女たちの中でも傑出した運と才能をもち、スターと呼ぶに相応しい5人の調香師に光を当てる。
クリスティーヌ・ナジェル(Christine Nagel)
成分を嗅ぎ分けられる天才的な鼻と、溢れ出るアイデア
スイスの香水会社フィルメニッヒの研究部門でキャリアのスタートを切ったナジェル。転機となったのはクロマトグラフィー(香りの成分分析)の部署への異動だった。この部門に属したことで分子レベルで香水の成分配合を調査し、研究する機会を得た結果、ついには鼻だけで成分を認識できるようになったという。その後、イタリアに渡り、起業。フランス・パリに渡る1997年までの間に、フェンディ(FENDI)やヴェルサーチェ(VERSACE)などのフレグランスを調香。2003年のナルシソ ロドリゲス(NARCISO RODRIGUEZ)の「ナルシソ ロドリゲス フォーハー」では、フランシスクルジャンと協働した。また、ジョー マローン ロンドン(JO MALONE LONDON)には彼女が手がけた香りが数多く存在する。現在、専属調香師を務めるエルメス(HERMÈS)での活動は2014年から。2016年まで同社の専属調香師だったジャン=クロード・エレナ(Jean-Claude Ellena)と出会う。エルメスでの最新作として、時代を超越するという点において同メゾンの価値との共通点を見出したシブレのノートで完成させた「バレニア」を生み出した。
マチルド・ローラン(Mathilde Laurent)
嗅覚の美の探究者であり、固定概念を覆す香りのイノベーター
名門ゲラン家が設立した、フランス・ベルサイユの国際香料・化粧品・芳香食品高等研究所(ISIPCA)に学んだ。インターンシップからスタートしたゲランでのキャリアは11年ほど。その後、2005年にカルティエ(CARTIER)に入社。以降、現在まで専属調香師を務める。第一作目の「ベゼ ヴォレ オードパルファン」(2006)や「スプレー ズール ドゥ パルファン ルール ヴェルチューズ オードトワレ」(2012)、ウードを再解釈したシリーズ「レ ズール ヴォワイヤジューズ」(2016)などに見られる通り、天然と合成の香料を組み合わせた調香で従来の香水の限界を拡張しながら、先入観に対する疑問を持った刺激的な香り作りに邁進。2015年に発表したカルティエの「レ ズール ドゥ パルファン ルール ペルデュ オードパルファン」では、あえてラボで作られた合成香料のみを使用し、しなやかで弾力性のある抽象的な香りを生み出した。また、フレグランスの香り立ちを妨げないことをコンセプトにした無香性のボディケアシリーズを、2025年にローンチ。固定観念を覆す姿勢をもちフェミニストでもある彼女は、独自の視点と確固たる信念をもってクリエイションに挑むことで知られる。
ファニー バル(Fanny Bal)
巨匠ドミニク・ロピオンとの出合いで花開いた才能
ニューヨークを拠点に展開する大手香料メーカー、インターナショナル・フレーバーズ・アンド・フレグランス(International Flavors & Fragrance=IFF)でジュニア調香師としてキャリアをスタートし、現在も籍を置く。調香師ドミニク・ロピオンによる指導が礎だ。ロピオンから原料を一つひとつを正確に調合する厳密さと正確さを学んだという彼女は、「彼から学んだのは使うすべての原料に明確な理由が必要であり、ミニマルな調合レシピを書く技術が必要とされるということ。それによって香水にしっかりとした個性が生まれるのです」と回顧する。2020年に発表したパルファム ジバンシイ(GIVENCHY)の「イレジスティブル オーデパルファム」は、師匠のドミニク・ロピオンとアンヌ・フリッポ(ANNE FLIPO)との共作。ロピオンはバルについて「好奇心旺盛で、粘り強く、大胆。偉大な調香師になるための最高の資質をすべて備えている」と評した。バルの転機となったのは、フレデリック マルのフレグランス製作への参加。2017年に「サル ゴス オードパルファム」(日本未発売)を発表した。
デルフィーヌ・ジェルク(Delphine Jelk)
パフューマーのキャリアを下支えする、高いマーケティングスキル
ゲラン「ラール エ ラ マティエール ペッシュ ミラージュ オーデパルファン」
名門グラース香水研究所に学ぶ。調香師としてのキャリアをスタートする前、香水業界のマーケティングに携わった経験を持つ。そのキャリアを生かした香りは、知識と教養に加えて消費者の心に響くものを見抜く直感力が欠かせない要素となっている。彼女の作品は、細部への細心の注意、作品に使われる原材料に対する深い理解、そして異なる要素を調和させながら香りにするといった多角的な才覚が融合することにより生まれる。現在、香水会社のドロム社に所属し調香師としての活動はもちろん、後進の指導にも精力的に取り組んでいる。また、香水の歴史とフレグランスデザインに関する知識のシェアにも尽力。鍛え抜いた臭覚に、豊かな想像力を備えた彼女の才能は、誰もが知るフレグランスの老舗メゾンで大きく花開いた。2014年にゲラン(GUERLAIN)にジョインし、フレグランスクリエーション ディレクターを担い五代目調香師ティエリー・ワッサーのもとで研鑽を積み優に50を越える作品を手がける。デルフィーヌは「調香師はクリエイティブな仕事であり、親密な仕事です。クリエーションのプロセスは極めて親密で内なるもの。私は自分の嗅覚の記憶をすべて引き出し、人間としての自分を引き出します」と語っている。
オリビア・ジャコベッティ(Olivia Giacobetti)
前だけを見続け、時代の匂いをキャッチする力を持つこと
バイレード(BYREDO)やディプティック(DIPTYQUE)、フレデリック マル(EDITIONS DE PARFUMS FREDERIC MALLE)、ザラ(ZARA)などのヒット作の調香を手がけたことで知られ、多くの名香を創出。しかし、その輝かしい過去を振り返ろうとはしない。「真にクリエイティブであるためには、未来に目を向け続けるしかないからです。しかし、私のフレグランスのいくつかが時の試練に耐えてきたことを知ることはやり甲斐を感じます。おそらく、流行に左右されなかったからでしょう」との考えに拠る、インタビューで答えている。更に「私の主たる目標は、シンプルな形を見つけることです。単純すぎる形ではなく、シンプルさの錯覚を与える複雑な形です」という。また、2000年にフレグランス ブランドを起業したフレデリック・マルは、オリビアについて「彼女の香水に関する文章の質。つまり流行を追わない現代的な文体は女性的で若々しく、自由で非常に個人的な文章。偉大な写真家のように雰囲気を作り出し、空気を捉える稀有な才能がある」と語っている。その二人により、香水「アン・パッサン」と、メディチ家ゆかりの花を着想源にした「アイリスハンドクリーム」が誕生した。
Text: Akira Watanabe Editor: Rieko Kosai