引いていく潮のように跡を残しながら、時は過ぎゆく。私の目には、カールの姿がはっきりと映っている。コカ・コーラ ライトを注いだグラスの持ち方から、曲や読んだ本をとても気に入ったときに、ピアノを弾くかのように指を宙でひらりと動かす仕草に至るまで。年齢を重ねるごとに見た目は変われど、内面は変わらない。そして、カールと初めて会ったときのことは、今でもまるで昨日のことのように感じられる。
あれは90年代半ば、ファッションウィーク期間中に彼の興味をそそった人物、つまり彼のヴィジョンの宇宙に新しく輝く期待の星を招いて開催する、噂のパーティーでのことだった。ジョン・ガリアーノがそのパーティーにチームの一部のメンバーとともに招かれ、その中に私もいた。タペストリーが飾られた豪奢な部屋に入り、私たちは行儀の悪い子どものような気持ちになった。私は、モスリンのひし形のパネル仕立てがステンドグラスのように見えるバイアスカットのスカートをはいていて、部屋の反対側から誰かに見られていることに気づいた。
円卓で優美なルイ15世様式の椅子に座ったカールが、黒いサングラスの向こうから、鋭い視線でじっとこちらを見つめていた。彼の周りには、パーティーの参加者が火に群がる蛾のごとく、彼の扇子の動きひとつで散らばったりまた集まったり、ロウソクの灯ったシャンデリアの下で分厚いオービュッソン絨毯の上を舞っていた。
私たちは呼ばれたのか、それともシャンパンのグラスを掲げた人たちの合間を縫ってカールへと引き寄せられたのか。私はそのときの彼の印象として、権力の頂点を極め、出会う人物全員の秘めた力を見抜く皇帝のようだと思った。後々、私が離婚と難しい契約で苦しんでいると知ったとき、彼はそっとやさしく寄り添ってくれただけでなく、その知識も惜しむことなく貸してくれた。「君を助けたい」と彼は言ってくれた。
1996年には、私はシャネル(CHANEL)と契約し、翌年の1月に発表する1997年春夏のクチュールコレクションに取り組み始めた。カールが私に頼んだ初めての仕事は、ギリシャ神話の9人のミューズの名前を彼にファックスで送るというものだった。そしてハッと、これは彼のインスピレーションを見事に表現したコレクションに隠された秘密のメッセージだと気づいた。後にリッツ パリで発表されたこのコレクションの中には、古代の詩のように刺繍を施した3着のミューズドレス(ルック33、34、35番)が含まれていた。
ジョンに仕えることとカールに仕えることの違いは、まさしく、2つの信念の違いそのものだった。片方は感情的で、ストーリー性や五感に訴えるボリューム感と生地の追求を原動力としていて、もう片方は、デザインの設計の目覚ましい進化と職人技の技術革新に対し、服の構造の中に密かに埋め込まれた歴史的・文化的参考要素のハーモニーを戦わせていた。カールは並外れて仕事が早く、同時にいくつものコレクションをこなしていた。
彼はファッションのこと、さらに言えばどんなスキルが求められるのか、どんな生地が向いているか、そして何より重要なのが、コレクションを通して何を提案するのか、ということを熟知していたため、F1ドライバー並みの決断力があった。彼が生地のスワッチや刺繍のテクニックに飛びつくのを見て、私は目を丸くし、少しア然とした。ためらいなんて一切ないのだ、と。カールがよく言っていたように、「第2の選択肢などない」のだ。
1997年秋冬のプレタポルテコレクションに取りかかり始めたシャネルのスタジオでの初日は、かなり気後れするものだった。スタジオでは誰もがそれぞれの役割を持っており、パリ郊外の馬牧場でタイユールのためにブレードを作っていたマダム・プージューも、例外ではなかった。ボタンだけを担当する子や、シーズンのカメリアを担当する子もいた。
ヴィクトワール・ドゥ・カステラーヌがカールとともにジュエリーをデザインし、ジル・デュフールがスタジオの指揮を執っていた。何もかもが儀式のようで、優雅で、そして私の目には格式ばって見え、自分は何をしたらいいのか、具体的には分かっていなかった。直感的に、私はジョンに対してしたであろうことをした。カールに1920年代のウエディングドレスを送ったり、インスピレーションになるような画像のスクラップブックを作ったり、といったことだ。カールは私に一度も、やらなくていいとは言わなかったが、私は次第に、彼のアイデアはすべてもう彼の頭の中にあるのだと悟った。
私の仕事は、彼がいつか言った言葉を借りれば、「外の両目」になることだった。つまり、ショーの直前までコレクションを間近で見ないことで、その動き、バランス、プロポーションが真に胸に響く調和を奏でているか確認できる人物になるということだ。
カールの無言の期待に応えるのは、簡単ではなかった。ジョンとなら、皆でテーブルに広げたスケッチや写真、スワッチ、スズランの花輪を囲んでいただろう。プルミエール(アトリエ主任)の恐怖に引きつった顔は一生忘れないだろう。だが、それこそまさしく、カールが私をあそこに置いていた理由だったと思う。彼は、儀式的なやり方を緩め、創造の可能性を広げたかったのだ。
あるとき、オフィスにはN°5が充満し、長机に座ったカールの周りにシャネルのタイユールが連なり、さらにその後ろに野次馬が連なり、息ができないほどだった。カールは椅子から立ち上がり、私についてくるように言うと「Mademoiselle」と書かれた扉から出ていった。「中へ戻って、コレクションの制作に直接関わっていない者は、全員今すぐ出ていくよう伝えてくれ。出ていかないなら私が出ていく」と、彼は語気を強めた。
私は中へ戻ったが、銃殺隊に向かうような気持ちだった。新しく来たよそ者の私が、誰かに「出ていけ」なんて言えるわけがない。しかし、できる限りのフランス語で、カールに言われたとおりにした。すると、驚いたことに、皆部屋から出ていった。
これは、新しい世紀に向けてメゾンに弾みをつけるためのカールの計画の始まりだった。これまでの成功に縛られず、シャネルを見直し、再定義していた。彼は、新しいカーブのショルダーからダブルジャケットやドレスにもなるジャケットなど、ジャケットの可能性を探りたかったのだ。丈を足首まで落とし、フラットサンダルとデザイナーのイブ・ポワラーヌが手がけた新作のシャネルチェーンを合わせた、「禅」コレクションをデザインした。
意義深いことに、彼はコレクションのデザインを考えるきっかけとして、ショーのセットに集中するようになった。大きなチェーン、象徴的なライオン、シンボリックな花園、霧に包まれたエッフェル塔、そして宇宙ロケット──そのすべてがそれぞれの役割を果たし、カールが夢の中で想像し、グラン・パレで現実のものとした、一瞬にして永遠に記憶に残るショーをつくり上げていた。
最も忘れられないコレクションのひとつが、リーマンショックの後に開催された、2009年春夏の紙をテーマにしたクチュールコレクションのショーだ。不安や懸念に抗い、メゾンが次々とショーの規模を縮小する中、カールはブルーノ・パブロフスキー(シャネル ファッション部門 プレジデント)が彼に置いていた全幅の信頼に支えられ、その真逆の方針を推し進めた。巨大なペーパーフラワーと切り紙のバラやカメリアに飾られた真っ白な会場で、見事な紙のティアラを頭に飾ったモデルたちが階段を下りていく。
カールは、「すべては真っさらな紙の状態から始まった」と、自分のプロセスを費用は無に等しくても金では買えない価値のあるシンプルなアート、つまりスケッチになぞらえて言った。カールは、ディテールやクラフツマンシップには惜しみなくこだわりながら、技術と革新こそどんな逆境にも打ち勝つことのできるものだと示した。
今年、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティテュートで開かれる展覧会『Karl Lagerfeld: ALine of Beauty』は、シャネル、フェンディ(FENDI)、バルマン(BALMAIN)、パトゥ(PATOU)、そして自身のブランドのカール ラガーフェルドにおいて数十年にわたってカールが生み出してきたデザインを評価し、称えるものだ。
安藤忠雄がデザインを担当した会場で、キュレーターのアンドリュー・ボルトンが、美の解析において蛇のように曲がりくねった曲線は「動」を表すのに対し直線は「静」を表すとしたウィリアム・ホガースの美の解析における美学論を検討する。アンドリューは、カールの創造の精神の蓋を開けることで、彼の多種多様な感情・創造の流れは、それが画一的であれ、現代主義的であれ、男性的であれ、情熱的であれ、歴史的であれ、装飾的であれ、エネルギーでみなぎっていることを明らかにしている。
しかし、カールの特性は明らかに、彼の優れたスケッチの腕に表れており、今回の展覧会はそのスケッチを中心にしている。アンドリューは展示の中に、カールが信頼を置いていたプルミエールたちが、彼の精緻なスケッチをミリ単位で理解できることを説明した示唆に富む動画も加えた。
カールは非常に几帳面で、生粋のおとめ座だった。シャネルで彼の素晴らしい右腕を務め、現在はメゾンのアーティスティック ディレクターに就任しているヴィルジニー・ヴィアールが、モデルがフィッティングのためにカールの前に立つと同時に、各スケッチとともに生地スワッチと彼のメモを彼の目の前に置く。彼が立ち上がることは滅多にないが、モデルは細部までつぶさに観察できると同時にプロポーションを確認できるくらいの近さに立っている。
プルミエールたちが息をひそめて待つ中、彼の目がスケッチからトワルへと素早く動く。カールは、彼のスケッチのほんの些細な一部でも正確に服へと反映されていなければ瞬時で見抜くのだ。「申し訳ないけれど」と、その作品を担当するプルミエールに、完璧にスケールアップして三次元で再現されていないスケッチの部分を指でトントンと叩きながら言う。「ポケットの位置が1ミリずれている」。ポケットがはぎ取られ、正しい位置にまち針で留められる。「ほらね。申し訳ないが、私が正しい。1ミリですべてが変わるのだよ」。
カールは避雷針のような人だった。正のエネルギーに貪欲だった。彼が数々のコレクションや撮影、建築プロジェクト、映画製作、展示会を同時進行でこなすことができた理由のひとつは、自分の周りを才能とやる気にあふれるチームで固めていたからだ。彼は、メゾンやブックの間をまるで光のように瞬時にぱっと切り替えて行き来することができた。
フェンディ姉妹は、カールの新しいものへの飽くなき欲求、そしてそこに彼独自のカウンターカルチャー的・歴史的要素をもたらすことができることを理解していた。カールは、よく私に聞こえるように口にしていたものだ。自分のクリエイティブな思考プロセスがこうも完璧に分かれているのは、どうなっているのだろうな、と。メゾン同士で重なることも、同じことを繰り返すことも、一切ない。カールには、ローマの古代の遺跡や広い空に輝く太陽の美しさや、パリの洗練された優雅な均整のとれたグレイやチャコールの街並みを感じ取る感性があっただけでなく、個々のメゾンの異なるエネルギーを引き出す力もあった。
フェンディでのフィッティングはワイルドで、活気と笑いに満ちており、彼のコレクションは反抗的で息を吞む迫力があった。カールは、理屈抜きで感覚的にローマを愛していた。
カールのターボチャージャーでもついているかのようなエネルギッシュさはめまいを起こしそうなほどだったが、倦怠だけは彼の我慢ならないことだった。彼のレーダーは、100メートル範囲でやる気のなさを感知できた。サントロペで過ごしたある夏、モデルの男の子たちと私と一緒にディナーを食べたいと言った。これはつまり、ちょうど真夜中前に、ベントレーに乗り込み、ルーフを開けて、星降る夜空にシルエットが浮かぶカサマツの下、「ボヘミアン・ラプソディ」を大音量で流しながら、スイッチバックの道路を猛スピードで駆け下り、サントロペ市街へドライブする、ということだった。
私はいつも、白ジーンズとダイヤモンドを身につけたカールとともに港を歩きながら、彼はジャック・ドゥ・バシェールやアントニオ・ロペスと過ごした月日をもう一度生きようとしているのだと思っていた。男の子たちは皆携帯をいじり、カールはテーブルの向こう端に座り、(モデルの)バティスト・ジャビコーニと雑談していた。私は音楽がズンズンと夜の闇に響く中、ただぼうっと宙を見つめていた。
翌朝(私はカールの別荘に泊まっていたのだが)、ドアの下から封筒が滑り込ませてあった。中には、カールが撮った前夜の私の写真が入っており、「退屈そうだ」と書かれていた。それから、もう二度と同じことをしないようになった。カールの言う、「最高の夏の太陽をさえぎる雲」にはなりたくなかった。
彼は、私がシュロップシャーの人里離れた田舎に住んでいることを気に入っており、よく段ボールいっぱいの本を送ってくれた。18世紀の女流作家についての本や、タール夫人やベス・オブ・ハードウィック、「冬の女王」エリザベス・ステュアートの伝記、それから、マネ、モネ、ピカソ、ノルデ、ドイツ表現主義派など偉大な画家たちの素晴らしい本だ。「嵐が丘」(彼は私の小さな農園をそう呼んでいた)に書庫を作ってやりたかったのだ。
彼は毎年のように、君の家に行くぞ、と脅してきた。「プライベートジェットが着陸できる長い滑走路がある一番近い空港はどこだ? セバスチャン(カールのボディガード兼アシスタントのセバスチャン・ジョンドー)と一緒にそっちに行く」。私はパニックになり、家を大掃除し、友人全員に長い白エプロンを着せて使用人をお願いし、1週間前から家のインテリアをセッティングした。
結局、悲しいことに彼は一度も泊まりに来ることはなかった。なぜなら、彼がシャンパーニュ地方に購入したシャトーや、一夜も過ごすことのなかったパリ郊外にある最愛のヴィラ・ルーヴェシエンヌの写真を送ってくるので、私も我が家の写真をiPhoneで撮って送るのだが、彼がその写真から推測した我が家のブルームスベリースタイルなカオスを気に入ったからだ。
カールは、昼も夜も関係ないような生活をし、時の流れに抗うことを楽しんでいた。しかし最後は、時の流れには勝てなかった。私たち全員、そうであるように。彼は病気のことを、セバスチャン以外には誰にも言わなかった。もちろん私たち皆知っていたが、きっと良くなると信じることで、不思議と本当に良くなっていると思えた。弱っていく体を押して活動する姿はとても勇敢で、見ていて胸が張り裂けそうだった。
今思うと、彼は本当のことをきちんと理解できるようにしていたのだと分かる。暗闇の中に並べられた白い小石の道しるべのように。彼の最後のクチュールとなった2019年春夏は、彼の好きなものすべてを、ヴィラ・ルーヴェシエンヌやビッセンムールにある子ども時代を過ごした家にあったようなカーブ階段を備えたイタリア様式のヴィラの前に広がる、池のある幻想的な夏の庭園に集めたものだった。
ポンパドゥール夫人の陶器の花から、1970年代のクロエ(CHLOÉ)での彼の才能を発揮したシルクシフォンの繊細なティアードドレスやプリーツドレス、自身のブランドを物語る本質だけを凝縮したテイラリング、フェンディを思わせるより極端なフェザー使いをしたアーキテクチュアルなシェイプまで、装飾的な魅力にあふれたクチュールとラグジュアリーに捧げたコレクションだった。
ショーの前夜、各モデルのアクセサリー決めを終えた彼は私を見て、どんな音楽をかけたいか尋ねた。それは音楽についてというより、このコレクションが私にとってどんな存在か、という質問で、私は、人生初の恋人とヨーロッパを旅してビザンツ様式の教会を見て回ったときの、人生で最もロマンティックなひとときを思い出した。ヴェローナで、屋根の上に立つヴァイオリニストが弾くチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲が聞こえてきたのだ。それで私は、「チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲ニ長調」と答えた。
「ダメダメ、分かりやすすぎるし、ロマンティックすぎる」と彼は言った。「私は『大地の歌』がいいと思っている」。マーラーの曲だが、私はこの曲を知らなかった。彼は、グラン・パレで行われたショーに来られなかった。ショーに不参加だったのはこれが初めてだった。本人は、行けなかったことを雪のせいにしていた。
その夜家に帰った際、私はすぐさま、『大地の歌』をダウンロードした。マーラーはこの連作歌曲を、娘の死後、そして自身も深刻な先天性の心臓病だと診断された後に作曲した。中国の古詩をもとにした、大地の美しさと超越性を描いた歌詞が、マーラーの心をとらえた。それはまるでカールが、彼の愛したものすべては永遠に残るのだ、と私に教えてくれているようだった。彼の魂は永久の大地とひとつになるのだ、と。
“心穏やかに その時を待とう! 愛すべき大地の 至るところで春には花咲き 新たな緑が萌え出で命を吹き返す 至るところで永遠に 遥か彼方が 碧く光る永遠に 永遠に──”
Text & Styled by Amanda Harlech Hair: Eugene Souleiman and Soichi Inagaki Makeup: Ana Takahashi Models: Anok Yai and Sora Choi Produced by PRODN Set Design: Ibby Njoya