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マララ・ユスフザイ──24歳を迎えた人権活動家からのメッセージ。

10年以上、女性教育の権利を訴え闘ってきた人権活動家のマララ・ユスフザイ。オックスフォード大学を卒業し、今年24歳を迎えた彼女は今、人生の岐路に立っている。恋愛、家族、そして発表を控える新たな計画について、その心境と未来への希望を包み隠さず語ってくれた。
マララ・ユスフザイ──24歳を迎えた人権活動家からのメッセージ。

史上最年少でノーベル平和賞を受賞した人物であっても、人生にときおり訪れる発作的な不安と無縁ではない。「それは私が毎晩、自分にしている質問よ」マララ・ユスフザイが思い詰めるようにそう言ったのは、10年後の自分はどうなっていると思うか質問したときだ。「眠れずに何時間もベッドに横たわって、延々と『次は何をしよう』と考えているわ」

前日に『ヴォーグ』の撮影を終えたばかりの24歳のマララはこう続ける。「次はどこで暮らす? このままイギリスに住み続ける? パキスタンに戻る? それとも別の国へ移る? それからこう考えるわ。私はだれと暮らすべき? ひとり暮らしをする? 両親と暮らす? 現在私は両親と暮らしていて、両親は私のことを愛している。アジア人の親というのは特に、子どもたちをずっとそばに置きたがるものなの」

どこに住む? 何をする? 24歳が迎えた人生の岐路。

私たちがいるのは、ロンドン中心部にあるホテル内の片隅である。マララは髪を垂らしており、布で覆ってはいない。彼女のヘッドスカーフはうなじのところまで下がっている。「スカーフは外に出るときや、人前に出るときにすることが多いの」そう語るマララは静かにテーブル席につき、近くには慎重なボディガードが控えている。「家にいるときはスカーフをしないし、友だちと一緒にいるときもしなくて大丈夫なの」。なお、ヘッドスカーフにはイスラム教への信仰以上の意味があるのだという。「それは私たちパシュトゥーン(北西パキスタンと中部と南部のアフガニスタンに住む民族)にとって文化的なシンボルであり、私のルーツを表すものなの。そしてイスラム教徒であれ、パシュトゥーンであれ、パキスタン人であれ、女の子が伝統的な服装をしていると、抑圧されているとか、社会的影響力を持たないとか、家父長制のもとで生きていると見なされる。だけど私は声を大にして言いたい。自分の文化のなかにあってもちゃんと自分の意見を持つことはできるし、平等を手にすることはできるのよ」

これがパキスタンで11歳のときに少女の権利を訴える活動をはじめてからおよそ13年間、マララが世界に発信し続けてきたメッセージである。タリバン(パキスタンとアフガニスタンで活動するイスラム主義組織)支配下に置かれたパキスタンのスワート渓谷にあるミンゴラの街では、マララをはじめすべての少女たちは学校に通うことが禁じられていた。

だが教育を受ける権利を放棄しようとしなかったマララは、15歳だった2012年10月、学校からバスに乗って帰宅中にふたりのクラスメートとともにタリバンの男に銃で撃たれたのである。しかし父ジアウディン、母トル、弟のアタルとクシャルとともに飛行機でバーミンガムのクイーンエリザベス病院に運ばれたマララは、奇跡的な回復を遂げ、ますます女性の権利などを訴える活動に力を入れるようになったのだった。

この暗殺未遂事件からわずか1年後の13年に出版された彼女の自伝『わたしはマララ』は、世界的なベストセラーになった(15年には映画化されている)。また、16歳のときにマララ基金を設立した彼女は、ボコ・ハラム(ナイジェリアの北東、および北部を拠点に活動するスンニ派過激組織)に誘拐された女子学生の解放などを訴えながら、女性教育の支持者として世界各地を訪れてきた。さらに各国の大統領や首相たちとも会い、同年の誕生日には国連ユース集会で演説し、世界を変えようとする活動家の急先鋒として、その名を知らぬ者はいないほどの存在になったのである。

ちなみに、17歳のときにノーベル平和賞を受賞しているが、このときはずっと(彼女にとっての第3言語での)イギリス一般中等教育課程を優秀な成績で修了するために、家族とともに移り住んだバーミンガムで多忙を極めていたという(彼女はバーミンガムらしいアクセントで話すこともできる)。17年には政治、哲学、経済を学ぶためにオックスフォード大学に入学し、20年に優秀な成績で卒業している。つまり、世のなかにはすべてにおいて優れた人が存在しているということであり、マララはそのひとりなのである。

とはいうものの、私が知ることになる彼女はギャップイヤー(学生が卒業後などに自分のやりたいことをする時期)の旅行計画がコロナ禍によっておじゃんになり、今も両親と暮らし、自分の部屋でビデオゲーム「アマング・アス」(宇宙を舞台に繰り広げられるオンラインのソーシャルゲーム)をするのが好きで、自分が何をしたいのか突き止めようとしている普通の24歳の大卒の若者でもある。世界的に有名なオックスフォード大学は出たものの、さて次はどうしたらいいか、という話なのだ。最初はささやかな、どう生きるのか、的な不安から始まった。それは「文字通り午前2時に」起こるのだというマララの口調は、これまでにも増してやさしく、思慮深くて、いつのまにか話に引きこまれる。「ベッドに腰かけて、プライベート用のインスタグラムをスクロールしながら『私は何をしているんだろう』と考えているの」

学位を取得し、新型コロナウイルス感染拡大がおさまるのを待つために昨年3月に大学から自宅に戻った彼女は、職もなく、目的もなく、退屈しきった、コロナ禍の20年度卒業生となった。実家の自分の部屋で、彼女はどういう選択肢があるか検討した。当然マララ基金の仕事は継続する。しかし、人生の岐路に立つ今、自分はほかに何をすればいいのだろう? 仕事を探すべきだろうか? 大学院に進学すべき? 海外を旅行する? とりあえず、彼女は眠り、母親が作ってくれるラムカレーに舌鼓を打ち、読書をし──彼女は今年84冊の本の読破を自らに課している──そうして、どうしてもネットでネガティブな記事を読み続けるのをやめられなかったという。「私は1年間、秘密のツイッターアカウントを持っていたの」彼女はそう告白する。「正式にツイッターを始める前にね。そして、そのときは4千人かそこらフォロワーがいた。結構いい感じでやっていたのよ」(正式にツイッターをやっていることを明らかにしたあとは、180万人のフォロワーがいて、現在もその数は増え続けている)

観ていて笑えるような楽しい番組を作るために。

そんな彼女にインスピレーションを与えてくれたのは、大好きなテレビだった。彼女は昔から、物語の力をよくわかっていて、11歳のときにグル・マカイという偽名を使ってBBCのためにブログを始め、タリバン支配のもとでの暮らしを伝えていた。自らにとって大事な事柄に人々の関心を向けるためにメディアを利用しているヘンリー王子メーガン妃やオバマ夫妻のように、マララも自分の番組制作を考えるようになり、その実現を助けてくれる人材を世界から募り始めたのである。

彼女はいくつか大手動画配信サービス企業と会った。言うまでもなくどこも関心を示したが、なかでも一社が突出していた。3月に彼女は(オプラ・ウィンフリースティーヴン・スピルバーグのホームでもある)Apple TV+と複数年にわたるパートナー契約を結んだと発表し、新たに制作会社「エクストラカリキュラー」を設立した。「私自身が観たいと思うような楽しめる番組にしたい」彼女は初期段階の企画開発についてそう語る。「自分が観て笑えなかったり、楽しめない番組を公開するつもりはないわ」マララはそう言い切る。

というわけで、少女たちへの教育や女性の権利といった真面目なテーマを扱うドキュメンタリーとともに、彼女はコメディを作りたいと考えている。マララはApple TV+「テッド・ラッソ:破天荒コーチがゆく」の大ファンなのだが、このヒットコメディのタイトルロールを演じる主演俳優が、彼女の父親のような口ひげを生やしているのも好きな理由のひとつなのだとか。彼女は世界的な有名人かもしれないが、ジャマイカ料理のテイクアウトやテレビアニメ「リック・アンド・モーティ」が大好きな若い女性でもあるのだ。

具体的な内容についてはまだ秘密だが、彼女が生みだす番組は来年には観られそうである。アニメ、ドラマ、子ども番組、これらすべてが進行中であるほか、マララは世界中の才能ある人々に活躍の場を提供できるようになればと考えている。「私には人々とは異なるバックグラウンドがある」彼女は大手動画配信サービスの典型的な視聴者層を念頭に置いてそう言う。「だからこんなふうに考えるの。もしもパキスタンのとある渓谷出身の女性が『サウスパーク』(アメリカの切り絵による、大人向けのストップモーションコメディアニメ)を作ったら、どんなふうになるだろうって」

一生分に匹敵する人生経験で周囲の人を明るく照らす。

「彼女のような人物はほかにはいないと思う」アップルCEOのティム・クックは、カリフォルニアのオフィスからのビデオ通話でそう語る。「彼女は唯一無二の存在だ」。彼は17年にオックスフォードで初めてマララと会い、即座に感銘を受けたという。「彼女は24年間で一生分にも匹敵する人生経験をした」そうティムは言う。「彼女にはさまざまなことを成し遂げてきた人生の物語があり、これまで世界をよりよい場所にすることに力を注いできた。北極星のようなヴィジョンがあって、つねに僕のような周囲の人々を明るく照らしてくれるんだ。そして数々の成功を収めてきたにもかかわらず謙虚で、地に足がついていて、一緒にいてとても楽しい。彼女はほんとうに素晴らしいよ」

確かに彼女は勝利を収めている。世知に長けつつも率直で、自分から一緒にセルフィーを撮ろうと言ってくれるし、いつも真剣である。私たちの会話はほとんどつねに少女たちの教育へと戻ってくるが、それはけっして退屈な繰り返しではなく、ただ彼女の心にはいつもそのことがあるからにほかならない。親しい友人たちからはマルと呼ばれているやさしい性格の彼女は、自分の言った冗談に声をあげて笑い、爪を噛み、クリケット観戦(5日間にわたって行われる国際試合は最高だとか)が大好きで、困っている友人の訴えには必ずメッセージを返す若い女性である。また、彼女にはユーモラスなところもあり、かつて学校で女子生徒総代の座を失ったときのことを話してくれた。「あなた以上の適任者なんている?」私は叫ぶ。「学校はそう思ってはいなかったのよ!」マララはそう応じ、自虐っぽく天を仰いでみせる。

また、彼女には皮肉っぽい一面もある。女子教育の大切さを訴えていると、たびたび直面する人々の無気力や無関心は腹立たしい。政治家たちは学校を作ると約束しておきながら、戦車や爆弾に金を使うのである。「初めのうちは彼らが言っていることを信じ、彼らが公約を実行するだろうと考える」そう彼女は言う。「しかし次第に、約束を守る者たちもいれば、そうじゃない者たちもいることを理解するのよ」

しかし、マララのスタイルは非難するより意見の一致を追求するものだ。人々と協力して問題解決に取り組むことを好む彼女は、変革よりもソーシャルメディアの「いいね!」ばかりを追い求めていたり、行動よりも炎上が原動力になっているような行動主義には疲れてしまうことがあるという。「目下のところ」彼女は皮肉めかして語る。「私たちは行動主義をツイートと結びつけてしまっている。それは変えなければならないわ。だってツイッターというのはまるっきり異なる世界だから」

マララはすでに、Z世代の若手活動家たちを代表する古参のリーダー的存在であり、18歳の環境活動家グレタ・トゥーンベリや銃規制を訴える21歳の活動家エマ・ゴンザレスとも親交がある。なお、グレタはオックスフォードにいるマララのもとを訪れたことがあるし、グレタもエマもマララにアドバイスを求めてテキストメッセージを送ってくる。「私は、ヴィジョンと使命感を持つひとりの女の子がどれほどのパワーを秘めているか、よくわかっているつもりよ」そうマララは言う。

オバマ夫妻が彼女のなかに認めたのも、まさにこのような資質だった。「マララはこの数年間たくさんの称賛を浴びてきたわ」ミシェル・オバマは私へのメールにそう書いている。「だけど、重要なのはそれがひとつ残らず事実だということなの。彼女はほんとうにすごい人よ。夫と私がマララに初めて会ったのは、彼女が13年にホワイトハウスを訪問したときなのだけど、アメリカ合衆国大統領と同席するのにふさわしい人物だということはすぐにわかったわ。彼女の落ち着き、聡明さ、そしてあらゆる少女が持つパワーに対する真摯な信頼は、初めて会ったときからこれ以上ないほどはっきりと伝わってきたの」

しかし忘れてならないのは、これらはどれもマララ自身の選択の結果ではないということだ。たとえば、彼女は自ら選んで活動家の父のもとに生まれ、その父から不公正を見たらいつでもどこでもそれと闘うようにと教えられたわけではない。「私の父は」マララは言う。「これはおかしいと感じたときには必ず、行動を起こす人なの」。また、タリバンがスワート渓谷にやってきたのも彼女が選択したわけではなかった。「私の行動主義はほんとうに幼いころからのものなの」彼女はそう言う。「そして、それは外で起こる私たちのコントロールの及ばないことに影響を受けた」

しかし大学時代、マララは生まれて初めて選択肢を手に入れた。たとえば夜更かしすることもできたし、ショッピングに行くこともできたし、テイクアウトの食事を注文することもできた。「ほんとうにあらゆることがうれしかった」彼女はそう言う。「マクドナルドに行ったり(スイートチリチキンラップとキャラメルフラッペが彼女のお気に入りのメニューである)、友だちとポーカーをしたり、おしゃべりをしに出かけたり、イベントに行ったり、どれもほんとうに楽しかった。なぜかというと、私はそれまでそういったものをあまり経験してこなかったから。それまでは同年代の人たちとちゃんと付き合ったことがなかったの。なにしろあの事件(タリバンから襲われ命を落としかけたこと)から回復し、世界中を旅してまわり、本を出版し、ドキュメンタリーを作り、あまりにもたくさんのことが起こったでしょう。大学に入ってようやく少し自分の時間がとれるようになったのよ」

17年にオックスフォードで大学生活をスタートする前に、マララが入るレディ・マーガレット・ホールの学長でかつて「ガーディアン」の編集長だったアラン・ラスブリッジャーは、マララのプライバシーを尊重するように学生たちにメールで要請した。彼女はとても恐縮したという。「私はただ、みんなにテレビのなかで見たあのマララ、ほかの人たちが考えたマララのイメージで見られたくなかっただけ」そう彼女は言う。「ほかの人たちと同じひとりの学生として見てもらいたかったの」

イギリスにやってきたばかりのティーンエイジャーであった彼女はそれまで孤独であり、バーミンガムのエッジバストン女子高校では人間関係に苦労したという。「みんなが『エマ・ワトソンだとかアンジェリーナ・ジョリーだとかオバマ大統領に会ってどうだった?』みたいなことばかりを聞いてくるの」マララはそう当時を振り返る。「そういうときはいつも、なんと言ったらいいかわからなかった。とても居心地が悪かったわ。だって『マララ』は校舎の外に置いて、単なるひとりの生徒として友だちになりたいだけなんだもの」。また、彼女はオックスフォード大学に提出する自己紹介書に「ノーベル賞のことは一切書かなかった」と打ち明ける。「なんだか恥ずかしかったから」

マララは大学に入ればきっと状況は変わるはずだと自分に言い聞かせたという。大学は「1年生は全員がそこに初めてやってくる人たちで、みんなまだ友だちがいないんだから」と。そして実際にすぐ仲間ができた。「入学したてのころ」彼女の親友ヴィー・カティーヴは言う。「彼女は世界が知るマララでいることがとても上手だった。大人たちといて、外交官や世界のリーダーたちとさまざまな状況に対処するような。そのころの彼女は今よりも遠慮深くて、真面目だった。そのような自分の設定を保たなければならなかったんでしょうね。だけど大人として大学に入学し、若者として卒業したのよ」

じつは、大変だったのは大学の勉強についていくことだったという。「パキスタンの学校にいたころの私は優等生だった」マララはそう言う。「だけど、オックスフォードに入って、すぐに行われた個人指導のことをよく覚えているんだけど、ほんとうに落ちこんだわ。大学に入ったとたんにごく平均的な学生になってしまい、文字通り世界でもっとも優秀な学生たちと競い合わなければならなかったんだもの」。しかし学生たちのトップ集団に追いつこうとするのではなく、マララは楽しむことを選んだ。「私はこう決めたの。パーセント以上のスコアが取れればそれでいいやって。『オックスフォードには睡眠、人づきあい、勉強の3つがある。そしてそのすべてを手に入れることはできない』という言葉があるのよ。そして、私が選んだもののひとつは人づきあいだったというわけ」

自分を理解し、愛し、大切にしてくれる誰かと出会うために。

実際に、大学での彼女の部屋はたまり場となった。というのもマララはいつもスナックを用意していたからだ。これは彼女が両親から学んだ習慣であり、パシュトゥーン文化においてもてなしの心はとても重要なのである。マララは飲酒はしないが、友人たちと一緒にパブに行き、彼らが酔っ払ったり、ブレグジットについて大声で議論したりするのを面白く眺めたそうだ。ちなみに、彼女はいつも朝食提供終了時刻ぎりぎりにカレッジホールに駆けこみ、小論文の課題で困っている友人たちを助け、いつも締め切りの前の晩になって課題に取りかかった。「それも毎週!」マララは叫ぶ。「いつも自分が嫌になったわ。『なぜ私は夜中の2時に寝ないで論文を書いているの? なぜ課題図書を読んでおかなかったの?』とね」。そうしてマララは朝8時という締め切り直前に「ひどい小論文」を提出し、ベッドに入りながら二度とこんなことは繰り返さないぞと誓いながらも、翌週まったく同じ状況に陥っている日々だったそうだ。

では、恋愛についてはどうだったのだろう。オックスフォードで出会いはなかったのだろうか。そうたずねると彼女は恥ずかしさのあまり、自然発火しそうな顔をしている。ほとんど硬直していたマララは、やがてこう言う。「すてきだなと感じる人たちに出会ったことはあるし、私のことを理解し、敬意を払い、愛し、大切にしてくれるだれかに出会えればという気持ちはあるわ」。まるで子猫をいじめているような気分になり、私は話題を変える。出会ったスターに夢中になったりすることはある? マララはブラッド・ピットと会ったときのことを話してくれる。彼はほんとうにハンサムだった? 「ええ!」マララは両手で口を覆って、くすくす笑う。

マララの周囲の人々は、彼女の身に起こったことを「あの事件」と呼ぶ。これは子どもに対する殺人未遂の呼称としてはずいぶん控えめな表現であるように思える。その襲撃後、武装勢力パキスタン・タリバン運動は、彼女に対する2度目の殺害予告を出した。そのためマララとその家族はバーミンガムへと逃れ、以来そこで暮らしている。そして彼女はそこから世界各地へ出かけていってマララ基金を宣伝していたのである。こうした空の旅の最中、彼女はよく故郷に帰ることを夢見ていたという。「いつも地図が表示されているスクリーンを見つめていたわ」そう彼女は言う。「そしてその飛行機がパキスタンに着陸するのを想像していたの」。そんなときには心を落ち着かせるために、雲を眺め、その形や構造、それがどんなふうに渦巻いているとか、風になびいているとかを観察したそうだ。彼女の私的なインスタグラムアカウントにアップされているのは空の写真ばかりである。

マララはパキスタンに帰ることを切望していたが、パキスタン当局は安全上の問題を理由にその要望を無視し続けていた。18年3月、彼女はパキスタン当局の言い訳にはもううんざりだった。「私は父に言ったの」彼女はそのときのことをそう語る。「パキスタンの政治状況では、帰るのに適した時期なんか見つけられっこない。いつだって必ず何かが起きるんだから」。父は娘の言葉に同意した。「飛行機が着陸したとたん」マララは言う。「私たちはパキスタンの空気を吸いこんでいた。まるで夢みたいだった。ほんとうにパキスタンへ帰ってきたのだとは信じられなかった」。彼女はどうしても最後にもう一度、祖母やおばに会いたかったのだ。このふたりは今はもう亡くなっている。

マララによれば、彼女がもっとも恐れることは、自分を頼りにしている声なき少女たちを裏切ってしまうことだという。この声なき少女たちというのはすなわち、両親がお金を貯めているのは兄弟たちを学校に行かせるためという少女たちであり、ずっと年上の男たちと結婚させられる少女たちであり、文字を読むことができない少女たちのことだ。マララはこうした少女たちのことを四六時中、考えているという。「私は自分の仕事を心から大切に思っているし、私たちが設定した目標を達成するまでにどれだけ時間がかかるのだろうと心配になる」そう彼女は言う。「みんなはこう言う。『マララ、心配しなくていい。それはきみが責任を負うことじゃない。首脳たちが考えるべきなんだ』とね。だけど自分にそうしたことに対する世間の関心をひく能力があるのだとしたら、やっぱり私はそうするべきだと思うの」

成長する自分と自らの手で見つける未来。

もしもあなたが政治家になれば、もっと内側から影響力を行使できるだろうと私は言う。彼女は謎めいた笑みを浮かべる。「私としてもその可能性を完全に捨て去ってはいないわ」。たいていの場合、マララは政治について語ろうとはしない。マララ基金は8カ国で活動を行っており、みだりに政治に踏みこむと、そのだいじな草の根レベルの仕事を危機に陥れかねないからである。しかし2月に、マララは自らに例外を許した。マララ襲撃に関わったタリバンのエフサヌッラー・エーサンが脱獄し、ツイッターで彼女を脅したのだ。「彼はどうやって脱獄したの?」彼女はそうツイートし、イムラン・カーン首相にタグづけした。「彼は大勢の人々を殺したと主張してきた」マララは怒りをにじませつつ、私に訴える。「おまけに彼はテロ組織のスポークスマンだった。それなのにみんなはそれを野放しにし、大目に見るつもりなの?」

「政治の世界に入る前に、人は自分が何のためにそこにいるのか、だれと一緒に働きたいのかということをはっきりさせておくべきだと心から思う」彼女は続ける。「パキスタンに存在している政党はどれも、後ろ暗い過去があるわ。自分は彼らを擁護するのか、それともしないのか。自分は政党を変えるのか。それとも自分自身の政党を結成するのか。イムラン・カーンはそれをやった。だけど、そのために年以上もかかったのよ」

私たちはホテルを出て、近くのセント・ジェームズ・パークを歩きながら、ペリカンたちやピクニックをしている家族たちの前を通過する。ダウンジャケットを着こんだマララはコツコツと靴音をたてながら私の横を歩いている。だれもすぐそばにいるノーベル賞受賞者に気づかない。そのときふいに、彼女が愛についての話を再開する。友人たちはみんなパートナーを見つけようとしている気がするけれど、自分は何を望んでいるのかよくわからないのだと。「少しだけ焦ってしまうの」マララはそう言う。「恋愛というものについて考えるととくに。ソーシャルメディアを見ると、だれもかれもが恋愛のことをシェアしているでしょう。そうするとなんだか心配になってきて……」。恋愛について? 「ええ……」彼女は熟考しながら、そう応じる。「だれかを信頼できるかできないか、どうやったら確証が持てるんだろう」

マララの両親は、彼女の言葉を借りれば「恋愛による見合い結婚」だったそうだ。つまり、お互いに相手の見た目を気に入り、親たちが残りをお膳立てしてくれたというわけだ。マララは自分がいつか結婚するのかどうかわからないという。「私は今も、なぜ結婚しなければならないのかわからないの。もしだれかとずっといっしょにいたいと望んだとしても、なぜ結婚の書類に署名しなくちゃならないの? なぜ単なるパートナーシップであってはいけないの?」しかしマララの母は、たいていの母親たちと同じく、その考えには賛同していない。「母はこんなふうに言うわ」マララは笑いながら言う。「『そんなこと言うもんじゃないあなたは結婚するのよ。結婚はすばらしいものなんだから』とね」。そしてその一方で、マララの父には、ときおりパキスタンにいる夫候補たちからメールが送られてくるのだそうだ。「彼らは、自分には広い土地やたくさんの家があります。ぜひ娘さんと結婚したいですと言ってくるのよ」彼女は面白そうにそう言う。

「大学2年生になるまで」マララはそう続ける。「私はこんなふうに思っていたわ。『私はけっして結婚しないし、子どもも持たない。ただ仕事だけをやるんだ。私はそれで幸せだし、いつまでも自分の家族と暮らすんだ』とね」彼女は新たな知見に目を輝かせて私を見る。「そのころの私には、人は変わるということがわかっていなかった。成長とともに人は変わっていくんだわ」

驚異的な回復を遂げた彼女は今、ようやくあらゆる選択肢が用意されていると思えるようになったという。「自分の未来は自分で見つけなくちゃね」彼女はそう言って笑顔を見せる。その方法を知っている者がいるとすれば、それはマララにほかならない。

Profile
マララ・ユスフザイ
1997年パキスタン生まれ。人権活動家。2012年パキスタンでタリバンによる女性教育弾圧に反対したことを理由に襲撃を受ける。以後、教育を受ける権利を訴え続け、13年「マララ基金」を設立。同年に『わたしはマララ』を出版しベストセラーに。14年には世界最年少で「ノーベル平和賞」を授与された。20年オックスフォード大学を卒業。現在、Apple TV+とパートナー契約を交わし、自身の番組を制作している。

Photos: Nick Knight Stylist: Kate Phelan Text: Sirin Kale