渡辺三津子(以下 W)今年はロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館でデヴィッド・ボウイの展覧会が行われますね。70年代に寛斎さんがデヴィッド・ボウイのステージ衣装を手がけて、世界的にカリスマ的な存在感を示したことが今、再注目されています。
山本寛斎(以下 K)ロンドンで、美術館のキュレイターの方と話してみると、イギリス人が持つ彼への思いは他の国の人とはまた違った特別なものだと実感しました。ボウイ氏はイギリス人にとってはまさにヒーローなんですね。今年は新曲も出ましたし、また(その人気が)再燃しつつあるのではないかと思いました。
W:その頃のクリエイションを今ご覧になってあらためて感じることもあるのではないでしょうか。
K:先日、40年ぶりに訪れたイギリスで、BBCのインタビューを受けました。そのときはとっさのことで「西の人と東の人の出会い」というような簡単な表現をしてしまいましたが、実はその話にはもう少し先がありました。お互いに出会ったことで恋に落ちた、というような感じですね。彼と私とは、激しい化学反応を持つことができたと思っています。
W:衣装デザインの依頼があったのは、ボウイさんのほうからですよね? はじめてお会いになったときの印象は?
K:当時の彼は、ロンドンからアメリカ、とまさに世界のマーケットに出ようという時期でした。ボウイ氏のことをとても好きでいらしたスタイリストの高橋靖子さんから、ニューヨークに来るべきだという電話を夜中に4回くらい受けまして。それで当時、ニューヨーク中のおしゃれな人たちが集うことで知られたラジオシティ・ミュージックホールへ、彼のアメリカでの初のコンサートを見に行きました。ボウイ氏が天井から降りてきてステージに立って、黒子たちが男女7〜8名で彼を囲って、いきなり歌舞伎の「引き抜き」という手法にヒントを得たやり方で、黒の衣装を引き抜いた瞬間、違う色柄の衣装が飛び出てきた。そこで一斉に会場のお客さんが総立ちになって。私は感動するとすぐ泣いてしまう質ですが、とても感激しました。第一には彼の歌、そして二番目に彼のビジュアルに観客は惹かれたと思うのですが、そこでのスタンディングオベーションが私たちの活動に対して向けられたような気がしました。
W:それでは、最初のコンサートの衣装は彼に会わずに作られたんですね。実際にお会いになった後に作られた2回目の衣装も含め、ボウイさんとのやりとりの中で、このようにして欲しいなどの要求はあったのでしょうか?
K:もちろん鏡の前でのフィッティング等はありましたが、彼からの具体的な希望はほとんどありませんでした。彼のユニークなメイクは川邊サチコさんが担当していて、どちらかといえば日本の我々が世界に出発した彼を作ってしまったという感じですね。デヴィッド・ボウイが一体何を変えたのかというと、それはやはり、性を超越したビジュアル。そしてそれが音楽に重なって出てきたということこそが彼の(世の中への)貢献だと思います。
W:デヴィッド・ボウイの、あの世界観が日本のクリエイターたちとのコミュニケーションから生まれたというのはファッションと音楽の歴史的にも、大変興味深いお話だと思います。その頃の日本人クリエイターたちの、世界に出て何かおもしろいことをやりたいというエネルギーはすごいものがあったのでしょうね。
K:そうですね。今の若い方たちは、比較的海外にお出にならないと聞いていますが、当時の若い人たちは、ある共通の凄まじい熱意を持っていました。たぶんその根底にあったのはベトナム戦争だと思います。様々な論議が白熱し、そこからいろいろなものが生まれていました。その頃の私はファッション誌よりも音楽誌から影響を受けることが多かったです。当時のアーティストの装いを見るのは、ファッション誌を見るのと同じくらい勉強になりました。当時の情熱、熱い想いをお伝えするのはとても難しく、ただ、唯一映画『イージー・ライダー』はそういった想いに近いように思います。あの時代は、セックスなどそれまではタブーとされていた事が色々と解禁になっていた時期ですので。
W:アメリカやヨーロッパのデザイナーの影響はありました?
K:デザイナーたちからの刺激はありませんでしたが、当時私がよく相談していたのが、イラストレーターのアントニオ・ロペス(故人)です。彼には、どうやったらイギリスでデザイナーとしてデビューできるのかと相談しました。そこで彼は私に、イギリスのヴォーグをはじめ、色々な編集部に自分の服を持って行きたまえ、と提案してくれたんです。グレース・コディントンなどの雑誌のエディターやイラストレーターなどさまざまなジャンルに渡っての交流がありました。あの時代、日本は封建的でコンサバティブな雰囲気が強くて私は異端視されました。当時から私は自分で作ったものを身につけていて、つまりデザイナーであり、モデルであり、観客は街ですれ違う人たちという図式でした。ヘアスタイルも私1人が金髪で、アフロヘアでした。日本では共感の眼差しよりも批判の眼差しの方が多かったです。それがイギリスに行ったら、全く違う眼差しになりました。それで開き直りが始まりまして。たとえば10人いて、8人がアンチであっても2人でも好意を持ってくれる人がいれば······世界にそのように共感する人がいれば、ビジネスが成り立つと思ったのです。
その当時(1970年)は『ライフ』誌の“世界のかっこいい10人の男”特集の1人としても紹介されていました。ただ、そのときの私の感想は「やっぱり10人の中の1人なんだ」というものでした。(自分を含めて世界にかっこいい男が)10人いるんですね、これではいかんということが分かったんです。それで世界の中の1人になるためにはどうしたらよいのかと考えまして。基本的に世界に通ずる熱い思いは抱きつつも、私の中にある日本の血とは何なのか、と問い詰めてみたんですね。アジアは比較的宗教の影響でショートカットが男性の場合多いので、金髪のアフロヘアをバリカンで刈り上げ、ロンドンブーツを履いて、真っ赤なタイトな上下を着て、イヤリングといった格好をしました。
W:10人の中の1人ではなく、たった1人の特別な存在になろうと考えたときに、日本人としてのルーツを意識された、と。
K:すごく意識しました。そして偶然出会ったのが歌舞伎なんです。当時の日本のイメージは「侘び・寂び」にひとまとめにされることが多かったんです。もちろんそれは日本の美しさの一面ではありますが、私は歌舞伎に流れていた「傾く」という華麗なエネルギー、その美しさを追究しました。
W:今も西洋社会からみる日本のイメージは、静かでシンプルでミニマルなものといった印象の方が強いのかと思います。そのいっぽうで、日本が持っている「傾く」文化という一面、豪華絢爛でカラフルで装飾も素晴らしく凝ったものはそこまで知られていない。私たちは今月号で、そこに注目したいと考えました。寛斎さんご自身は歌舞伎を見る前からそういった「傾 かぶく」文化、いわば婆娑羅的なものをお持ちだったのではないでしょうか。思い当たるルーツはありますか?
K:私は戦後の悪ガキの時代に出てきたタイプで父親がテイラーだったので、米軍払い下げのコートをリフォームしてくれてました。知性とか感性とか以上にもっとはみ出たいと思う気持ちは本質的なものが共鳴したとしか言いようがないんですよ。今はファッションから広がってイベントの世界へも進路を選んでいったのも、額の縁の中におさめるのではない、安土桃山の狩野一派のような作風を根本的に持っているからではないかと思うのです。
W:日本人の美意識や色の感覚は、日本の風土や自然と深く関係していますよね。
K:そう思います。単語としては「柄の重ね」という表現がありますが、能の衣装を見ていると、頭の先から足袋に至るまでの柄が幾重にも重ねているんですね。たくさんの色や柄を重ねても調和をとれるということは能から一番よく分かります。
W:それは、西洋の人たちにとってはある種のカルチャーショックであり、寛斎さんの服が熱狂的な反応を生んだのは、その「驚き」が一番大きかったのではないかと感じますね。
K:彼らの美学の中にないものを、私の方は自然な形で持っていたということだろうと思うんですね。人は、普段慣れていない「異なる美」と出会うと、誰の頭の中にも引き出しがあって、そこにまずは整理しようとするわけです。ところが私と出会うと日本人でもヨーロッパの人でもアメリカの人でも、一瞬でガラーっとひっくり返されるんですよね。そうするとそのショックでわっと声が出るんですね。その声は、日本では批判となることが多く、反対に海外の人たちは共鳴してくれるんだと思います。
W:昨年北京で数年ぶりのプレタポルテを発表しましたが、もう一度やってみようと思った理由は?
K:ロシアの赤の広場でスーパーショウなども行い、そこから約20年が経ったんですね。服に関しては、私自身が着る服と舞台の上で使う服は継続して作っていましたけれども。そんな中で、中国、特に上海を訪れたときに、服を使って表現する喜びのようなものが、突如、また眠りから呼び起こされました。いわゆる辛い唐辛子と出会ったみたいな感じで沸き起こったんです。私は服を通じて表現をするということに人生の半分以上関わっていたわけですから、今、もう一度その道へ向かっていこうという風に思っています。
W:70年代から80年代にかけては、才能ある日本人デザイナーたちが世界に出ていき、認められた時期でした。その方たちの活動を同時代に見ていて、寛斎さんはどういったことを感じていましたか。
K:どういうわけか、ある時期に集中して異なる才能が一気に出ていきましたよね。だからヨーロッパからアジアの富を求めて、船が漕ぎ出していった「大航海時代」みたいな感覚だっただろうと思うんです。やはりそういった(国際的な)交流がそれぞれの体質に刺激になって、それぞれの花が咲いていったんじゃないかなという風に思います。ここまで年齢を重ねますと、今更比較したり羨んだり等ありませんね。残っている年月で私なりの作風を納得できる形で、完成させられる道とは何かと模索しているのが今の私の現状です。
W:ファッションを目指す新しい世代の人達に、伝えたいことは?
K:私は「あなたはなんでそんなにエネルギーが出てくるんですか」とよく聞かれます。それは正確にいうと自分でもわかっていないのですが、まず「自分の欲しいものが手に入っていない」と思うから、ですね。だからこんなことをやっているんだと思います。マラソンで言えば、ゴールもありますけど、一応我々は命が終わるまでというそれぞれのゴールの時間を持っているじゃないですか。だからそこまでの競争の中で、人生のマラソンに参加するのか、しないのか、どこでやめるのか、やめないのかということだろう、と。
W:その欲望の熱量みたいなものが、今の若い人はどんどん低くなっている印象がありますね。
K:そういうのを伺うと、私はいくつになっても、10年後にまたインタビューをしていただくチャンスがあったとしても、おしゃれの温度はたぶん下がってはいないだろうと思いますね。80歳になっても、ガツンガツンに行くぞみたいな。私は過去の中にいるわけじゃなくて、まだ生々しく現役でやってますので。たとえばイチローさんが野球選手として移籍して、それでなかなかヒットが出ない、そんな苦しみみたいなものは肉体の限界との関係もある。しかしそのチャレンジにはやっぱり感動するし、私たちはたぶんそのチャレンジを死ぬまでやりたいし、ここで完成っていう時はないのかもしれませんね。
W:それではなおさら3月の東京でのショウは楽しみですね。新しいコレクションは何ルックぐらいですか? それは日本でも買えるのですか?
K:30ルックぐらいで、日本でも展開予定です。ショウもぜひ観にいらしてください。
※このインタビュー記事は『VOGUE JAPAN』2013年4月号に掲載されたものです。
Interview: Mitsuko Watanabe
