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編集長の基本をアップデート──恩師に聞く。アートディレクター仲條正義さんの「信念」とは?【前編】

私が編集の仕事をスタートした資生堂の『花椿』誌で長年アートディレクションに携わった仲條正義さん。仲條さんの50年以上に及ぶ作品をまとめたアートブック『仲條 NAKAJO』が今年出版されました。それを祝して、念願の初インタビューをお願いし、クリエーションへの強い「思い」をうかがいました。
6年をかけて制作された作品集。

仲條正義作品集『仲條 NAKAJO』(著者:仲條正義 構成・デザイン:服部一成、佐藤豊 編集委員:葛西薫、服部一成 発行:株式会社ADP)

渡辺 初めてこの作品集をご覧になったとき、どう思われましたか? 制作過程でどんどんページが増えていったんですよね。ページ数も膨⼤で、たっぷり⾒応えがあります。

仲條 出来上がるまでまったく⾒てなかったの。服部君(服部⼀成/アートディレクター。この作品集の編集委員)にすべてお任せしますって。売れているらしいよ。何ページある?

渡辺 650ページくらい。

仲條 そんなにある? サイン会もいくつかやったんだよ。そのたびに服部君が⾒に来てくれて。意気揚々と歩かなきゃ、ああいう場では⾯⽩くないからね。平気だと思ったけど駄⽬だね。

渡辺 表紙にもなっているこのハートのグラフィックとか最近⾒たような気がしちゃって。でも、製作年を⾒たら 1973年で驚きました。新旧を感じさせないので、年代順に並んでいる感じがしなくて。ただ⼀つ、『花椿』の写真でモデルが出てくるとヘア・メイクの雰囲気などで時代が分かるんですよね。これは70年代だなとか。でも仲條さんのデザインだけだと、わからなくなってしまう。やっぱり仲條さんって変わらない(笑)。変わらないって⾔っちゃ失礼なんですけど。すごく強いものがあるんだなって。

仲條 88歳までやってると、やっぱり残っちゃうんだよね。また、よくこんなのを引っ張り出してきたなと思う。(服部さんが)昔の本を買い取ったりしたらしい。

渡辺 服部さんのコレクションに加えて、ネットで⾒つけて買ったりしたそうで。

仲條 だって最初、(作品集を作ると)⾔われたとき、「ないよ、俺、そんなもん」って⾔ってたんだもん。

渡辺 出来上がるまでに6年程かかったそうですね。編集者の⽴場から想像すると、本当に気が遠くなるような作業だったと感服します。ご⾃分で昔の作品を⾒て、何か思うことはありましたか。

仲條 昔のほうがよかったかなと思うね、今のよりは。⻑⽣きしたなと思う、本当に。でもずーっと途切れなかったからね、仕事が。『花椿』のおかげだし。『花椿』が幹になって、あとは枝葉で。どうせ⾦になんないんだから、俺のデザインだと安いから。だから駄⽬だよ。⼥房がいなかったら、家なんかできなかったね。あれはしっかりもんだったから。

渡辺 『花椿』は⻑かったですよね、50年間近く・・・。

仲條 最初は同じ資⽣堂のデザイナーだった村瀬秀明(資⽣堂『MAKEUPTOKYO1964』のポスターを制作)が「俺もやる」っていうので⼀緒に始めたんだけど(1967年)、ところが、彼が何にもやんないんだよ。表紙だけやって、⼀晩かけて撮影するみたいなね。浅葉克⼰の同級⽣でね。あれは天才だと思うな。

渡辺 仲條さんより若い⽅?

仲條 浅葉克⼰と⼀緒だから8歳ぐらい下か。だけど尊敬すべき⼈でね。俺と(資⽣堂で)机並べていたんだよ。会社の近くに「うさぎ」ってバーがあって、俺と村瀬と飲んでたら、浅葉が来たんだよ。なんでお前なんか仲條さんと飲んでるんだこのやろう、って喧嘩吹っ掛けんのよ。お前、表、出ろみたいになって。「やめてっ」て⾔って(笑)。

渡辺 すごいですね。やっぱり当時はみんな、⾎の気が多い感じ。

仲條 多いね。でも、俺たちはやんなかったよ。

渡辺 じゃあ、その⼈たちが特別だった(笑)。

写真を通してみるファッション。

1990年〜1992年の『花椿』。右ページは復刊500号記念号。 Photos: Cindy Palmano

渡辺 『花椿』は 1983年から仲條さんが全てのアートディレクションを担当することになったんですね。意外にも、私が『花椿』に⼊る数年前で・・・。

仲條 そんなもんだと思うな。

渡辺 『花椿』は、資⽣堂だからもちろんビューティーも重要なのですが、やはりファッションが企画の中⼼にありましたよね。私は、学校を卒業してすぐ、本当に何も知らないまま⼊ったから、あらゆることを⼀から教わりました。仲條さんのファッションの捉え⽅というのが、ファッションの真ん中にいる⼈が⾒る⾒⽅じゃなくて、ちょっと違う視点だったなと今さらながら強く思うのですが、当時もそれは感じていました。仲條さんは、『花椿』の編集においてファッションとどう向き合おうと思っていらっしゃったのですか。

仲條 ひとつはやっぱり写真についてだね。ファッションデザイナーは、僕はどっちかっていうとイギリス系のデザイナーが好きだったの。

渡辺 イギリス系って、ヴィヴィアン・ウエストウッドとか?

仲條 そうね。ちょっとアバンギャルド系が好きだったんだね。

渡辺 カメラマンも⽇本⼈以外ではイギリスの⼈と付き合うことが多かったのじゃないかしら。やっぱりイギリス⼈と感覚が合っていたような感じがします。

仲條 イギリスのアバンギャルド感というか、パリとは違った感じね。⾷べ物はパリがいいにしても。昔はロンドンってろくなもんないんだよ、本当に。

渡辺 今はかなりレベルアップしていますが(笑)。私も数年前に久しぶりにロンドンに⾏ったら、やっぱりいいなってすごく思いました。パリとは違う匂いがあるから。

仲條 やっぱり、あのアバンギャルド感は違うんだよ。パリには伝統というものがあったとしてもね。

渡辺 カメラマンやスタイリストを探すときも、『FACE』や『i-D』などイギリスのストリート系の雑誌を⾒て、仲條さんに「こういう⼈、どう思いますか」と聞いてみたり。本当に毎⽉、ロンドンの雑誌をたくさんチェックしていた記憶があります。NY は『Interview』とか。私が 80年代の半ばに『花椿』に⼊ってから90年代前半ぐらいまで、ロンドンからどんどん新しいクリエイターたちが出てきて、カメラマンのシンディ・パルマーノもその⼀⼈でしたね。平⼭景⼦さん(84〜92 年『花椿』編集⻑)が出会って、ずいぶんいろいろな企画を撮影していました。平⼭さんは、ファッションデザイナーだけでなく、写真家についても新しい才能を探すことに情熱を注いでいらっしゃいました。当時のロンドンは、クラブカルチャーも盛り上がっていてわくわくする感じにあふれていましたね。

仲條 新しい情報がたくさん⼊ってきたよね。

1987年の『花椿』。 Photos: Cindy Palmano

渡辺 私にとっては本当に思い出深く、編集者の基礎を築いたありがたい経験がたくさんあります。80年代の末頃にシンディが妊娠し、⾃分の姿を写真に撮りたいと⾔うので、そのストーリーのルポを私が書くことになって。仲條さんが「とにかくやってみろ」って⾔ったんですよ(笑)。それで、私にとっては駆け出しの編集者として初めての単独出張だからすごく緊張しました。しかも、お腹が⼤きなシンディの写真と、最後に出産した⾚ちゃんの写真の間を埋める⽂章を丸々3、4ページびっしり書かなくちゃならなくて・・・。⾃分の⽂章で、ちゃんと読んでもらえるレベルの⻑⽂が書けるのか不安もありましたが、それを「乗り超えた」という達成感が今につながっていると感じます。

仲條 最初に、勝⼿にレイアウトで字数を決めるから、ひどい⽬にあったんだよ(笑)。

渡辺 当時は、デザインの⽂字数に合わせて、絶対に1⾏も余さずぴったり書くのが編集者だと思っていました。その後、“外の世界”に⾏ったら、結構、⽂字数はフレキシブルに書いても、あとはデザイナーが調整してくれるみたいな。順番が逆なんだと気づいたんです(笑)。でも、だからすごく⽂章の⾏や⽂字数を合わせるのが得意になりました。

仲條 勉強になったな(笑)。

渡辺 それ、すごく⾃慢でした。⼀字も余さず“箱組み”にする快感を職⼈のように⾝に着けました。最初にデザインありきだったから、編集そのものについての考え⽅の根本的な勉強にもなりました、いろいろな⾯で。雑誌は、「意味」よりも先に視覚的な感覚を何よりも重視するべきだ、ということも。

仲條 そりゃそうだ。恨み⾔、⾔ってんじゃないだろうな(笑) 。

アイデアが途絶えない雑誌の魅⼒。

1992年の『花椿』より。 Photos: Ellen Von Unwerth, Tiziano Magni

渡辺 90年代初めまではヨーロッパのカメラマンを起⽤した表紙がしばらく続きましたね。私の担当ではありませんが、まだ有名になる前のエレン・ヴォン・アンワースが撮影した年もありました。平⼭さんが、パリのデザイナーの⼊江末男さんから「才能ある⼥性の若⼿カメラマンがいる」と紹介されて、じゃあ表紙を撮ってみようか、となって。デビューしたてのケイト・モスも表紙になりましたね。

仲條 その数年後、少し(ヨーロッパに)飽きてきてアジアで表紙を撮ったんだよな。

渡辺 ⼀緒に、タイ、ベトナムロケ⾏きましたね。ちょうどベトナムが観光的にも活気が出てきたときだったから、じゃあ⾏こうっていうことになって。

仲條 表紙ではないけれどメキシコも⾏ったな。あれは最初ロスに⼊って、カメラマンは三浦(憲治)さんで。

渡辺 ロスからサンディエゴに⾏って、サンディエゴから⾞でメキシコに⼊った。

仲條 もっと奥へ⾏きたかったんだけど、ね。

渡辺 何かうまくいかなくて、結局ティファナの周辺になってしまって・・・。でも仲條さんのすごいところは、いつもそうなんですけど、ホテルの部屋や庭やその周辺であらかたロケ場所を決めちゃうんですよね。せっかくこんな遠くまで来たのに、ここ?って(笑)。

仲條 ずるいんだよ。

メキシコで撮影した「サッカー」特集。1994年の『花椿』より。 Photos: Kenji Miura

メキシコで撮影した「マジックリアリズム」特集。1994年の『花椿』より。 Photo: Kenji Miura

渡辺 仲條さんはロケに⾏って、どこが⼀番印象深かったですか。

仲條 いろいろあるけどね。ロンドンの郊外も良かったし。パリの郊外も⾏ったな。予算も当時は潤沢だったんだよね、割と。

渡辺 考えてみたら、あのときやっぱりバブルの恩恵ってあったのかなって。

仲條 完全にバブルだよ。ちょっと無理した予算もそれで通っちゃったり。

渡辺 仲條さんは、この本のコメントにも書いてありますけれど、雑誌を作るのが⾃分の性に合っていた、と。どういうところが合っていたのでしょう。

仲條 やっぱりアイデアが途切れなくて済むじゃない。毎⽉継続するというのがあるし。だから連載が僕、すごく⼤事だって⾔ってたわけよ、昔から。雑誌の⾯⽩さっていうのは継続でやるってことがあるから。年に4回とかだと雑誌の良さがでないね。そんなことでね、雑誌が⼀等、好きだね。で、この前、会ったとき、その洋服、着てなかった?

渡辺 着てないですよ!これは(コム デ ギャルソンの⽩いラッフル付きドレス)。仲條さんに前回、「こないだ会ったときと同じスカート履いてる」って⾔われて、それは本当だったのね。「嫌だ、覚えてるんだ」と思って。そんなに⼈の着ているものを覚えている⼈、そうそういないです。それで今回は絶対に以前着てなかった服を着てきた。

仲條 (俺)嫌なやつ(笑)。でも前のと似てるよ。

渡辺 だからやっぱり似ちゃうのよね、⾃分の好きな服って。仲條さんは昔、ヘルムート・ラングとかよく着てましたね。

仲條 好きだったね。

渡辺 やっぱりベーシックなものをモダンに扱うというところが良かった?

仲條 ベーシックじゃないとね、何事もね。マルジェラも⼤好き。

渡辺 やっぱり⼥性のファッションもベーシックはすごく⼤切だと思いますか?

仲條 もともとがそういうものだからね。ベーシックなものだからさ。ぐらぐら動いても結局、戻ってくるでしょう、きっとね。スタンダードにね。

「間違っても、信念」。

仲條さんが手がけたブティック「ザ・ギンザ」V.I.(1975年) のロゴマークとショッピングバッグ、包装紙。  Art Direction: 花内勇 Design: 川崎修二

渡辺 ロンドンのほうが性に合っていたとおっしゃいましたが、それはやはりものの⾒⽅のひねりというか、真正⾯からじゃなくて斜めから⾒るエキセントリックさみたいなことが仲條さんの感覚とも合ってたのですかね。

仲條 俺がパリ⾏ったってかなわないもんね。(それに⽐べて)平⼭さんは、まともだからさ。

渡辺 どうしたってパリはファッションの王道ですよね。それで思い出しましたけど、メルカトレ・アントンさん(60年代にパリでモデルとして活躍した後、ファッションジャーナリストに。ティエリー・ミュグレーなど 70〜80年代の個性的なデザイナーを若⼿の頃から⽀援した)が毎シーズン、コレクション特集のレポートをしていらっしゃいました。仲條さんが平⼭さんに何度もおっしゃっていたのは、「メルカを通じてパリを⾒るっていうことがとっても⼤切なんだ」ということ。パリのファッション界で⻑く活躍し、ファッションの真ん中にいる⼈からモードやトレンドを⾒ないと、“王道”が⾒えてこない。 “王道”を知らないと“サブ”もわからないということだったのかなと。それがすごく印象に残っています。

仲條 やっぱりなんかね。何でもいいんだよ、ずれててもいいと思うんだけど、“核”を⾒つけないと分かりづらいね。芯になる棒が。芯がずれてても構わないんだけど、それから物事を考える。

渡辺 それはものの⾒⽅のひとつの⽅法で、ああ、こういうことなのだなとヴォーグに関わる上でも感じることがよくありました。

仲條 時代が変わってきても、「メルカを信⽤しなさい。あの⼈は確かだ」っ⾔ってさ。やっぱり⼈、信⽤しないとな。誰でもよかったのかもしれない。この次は誰にしようかなって話が出ても、「駄⽬」って⾔って。それこそメルカはメルカ、「⼀本槍にしたほうがいいじゃん」ってさ。最後、(話していけば)メルカは分かる⼈だったもん。

渡辺 ファッションって流⾏があるから、あの⼈はもう古い、みたいに⾔われることも結構、早い。それを追い掛けるだけだと、⾒えるものと⾒えないものがあるということですね。あまり時代ばかりを追い掛けても・・・。

仲條 やっぱりこっちの意思がないと駄⽬だね。あと⾒る⽬がね。⾒る⽬というか、⾒る⽬があるかどうか分かんないけど、思い込むことだね。

渡辺 「思い込み」ですか。思い込みでもいいからしっかり芯を強く持ったほうがいい、と。

仲條 そう。⼤げさだけど、“気持ち”だね。

渡辺 それって、編集の仕事全体にも⾔えることですよね。雑誌は、新しいもの、新しいものと追い掛けていくじゃないですか。

仲條 でも、ふらふらしてるやつは駄⽬だね。

渡辺 編集者?

仲條 あっちこっち、あっち⾯⽩い、こっち⾯⽩いっていうようなやつは駄⽬。どっか⼀つの意地みたいなものがないと。

〈左〉花椿ビスケット(1990年) 〈右〉Truffe en Chocolat “Champagne”(1995年)/Chocolats aux Amandes(1990年)

渡辺 それはデザインも同じですか。

仲條 そりゃそうだよ。そういうもんだと思う。間違っても信念だよね。

渡辺 間違っても信念、いい⾔葉ですね。

仲條 「⾃分の⾔葉」。

渡辺 間違っても、なにか信念を持ったものが何かを成しとげる。

仲條 失敗するかもしれないけど・・・。失敗しないと思うよ。何かの結果にはなるよね、信念がありゃ。

渡辺  ファッションデザイナーにしてもグラフィックデザイナーにしても何にしても、何かをかたちに出来る⼈たちは⾃分だけの妄想なり信念を持っている⼈たちなわけですね。

仲條  それ、審査会で⾒ると分かっちゃうんだよ。そうじゃないやつ、駄⽬なんだよ。いくらいい作品でも。だから審査会になると俺の(選ぶ)やつはぎりぎりで落ちそうなのが全部。そんなんばっかりだったりするもんね。結果は、こうやって(続けて)いくとどっかでその⼈は認められるんだけどね。

渡辺 そういう作品は⾒ただけで、その⼈の信念、何かがある⼈だな、みたいなのはわかる?

仲條 いや、⾒当外れなやつでも信念はみんな持ってるよ、どんなやつでも。だけどそれが“モード”かどうかなんだよ。デザインの“モード”があるかないかなんだ、俺にとっちゃ。

渡辺 デザインの“モード”ってどういうものなのでしょうね。

仲條 伝統かもしれないね、“モード”っていうのは。決して新しいだけじゃないんです。(だから)ファッションはやっぱり⼀等、偉いんだ、こう思ってる。

渡辺 ファッションは⼀等、偉い? 本当ですか?なんで?

仲條 やっぱり歴史が⻑いせいかね。

渡辺 ⼈が服を着てきた歴史が⻑いということ?

仲條 いわゆる、それを伴う⽂化が⻑かったからね。やっぱり洋服ですよ、基本は。

渡辺 本当ですか。すごいですね、その⾔葉。基本は洋服?

仲條 うん。洋服だと思う。グラフィックなんて、後から付いてきたようなもんだもん。

渡辺 洋服のほうが先。“モード”は流⾏というだけじゃなく、「流儀」や「様式」という意味ですものね。

後編へ続く

Profile
仲條正義(なかじょう まさよし)
グラフィックデザイナー、女子美術大学客員教授。1933年東京生まれ。1956年、東京藝術大学美術学部図案科を卒業後、資生堂宣伝部に入社。1961年に仲條デザイン事務所を設立。1967年から2011年まで、資生堂企業文化誌『花椿』のアートディレクションを手がける。紫綬褒章、東京ADC会員最高賞、毎日デザイン賞、東京TDC 会員金賞など受賞多数。

Interview& Text : Mitsuko Watanabe Photos: Daigo Nagao