世界を熱狂させたデビュー・コレクション
世界中の多くの都市と同様に、パリも夏には瀬戸際に直面する──大通りが封鎖され、街のあちこちで渋滞が発生するのは、もはやこの季節の風物詩だ。だがペルシエ通りにあるクロエ(CHLOÉ)の本社には、街の喧騒と一線を画する、穏やかなムードが漂っている。ここの主であるシェミナ・カマリがオフィスの扉を開けると、その向こうには弧を描くロングソファ、花瓶に生けられたピンクのシャクヤク、そしてお茶がのったトレイが見える。壁には、さまざまな展示物が、縦横に整列してかけられている。クロエ在籍時のカール・ラガーフェルドがデザインしたスイムスーツ。ミック・ジャガー。小麦色のブラのストラップ。突き出した上下の唇の間に絶妙に挟まれたタバコ。現在42歳で、長身でスリムなシェミナはハイウエストタイプのクロエのワイドジーンズに、カフェラテカラーのブラウスという姿で、私を招き入れてくれた。彫りの深い目もとと、ボッティチェリの絵画を思わせる波打つ髪が印象的なシェミナは、お天気について話したかと思うと、今私たちがお茶を飲んでいるマグカップについて説明し、さらにこのあと自身が案内する予定の旗艦店について語った。その間ずっと、彼女は笑顔を絶やさない──温かみがある、どこかチェシャ猫にも似た満面の笑みだ。
2023年10月、シェミナはガブリエラ・ハーストの後任として、クロエのクリエイティブ・ディレクターに就任した。だが彼女とこのブランドの縁を知っている人たちは、この発表を聞いても驚くことはなかった。実は、シェミナがこのメゾンで働くのはこれが3度目だ。最初は20代前半に、当時フィービー・ファイロが率いていたクロエで、インターンとして働いていたという。
今、ファッション界のクリエイティブ・ディレクターは圧倒的に男性が占めているものの、「女性による女性のための服」という理念を掲げるブランドのクロエが、ディレクターに女性を選んだことは納得のいく話だ。シェミナ自身は、最前列の真ん中で注目を集めることを喜ぶタイプのリーダーではないという。それでも、このブランドの視点や気風が、伝統的な「女性らしさ」とエフォートレスなクールを両立させる、自分自身のスタイルとぴったり合致していることもよくわかっている。インタビューで私はシェミナに、仮に「シェミナ・カマリ」の名を冠したブランドがあったとしたら、そのデザインはクロエとは違ったものになりますか?と尋ねた(ちなみに前任者のガブリエラは、クロエを率いていた間も自身のブランドの運営を継続していた)。違いはないだろう、というのが、彼女の答えだった。「私が今やっていることは、本当にまっすぐなところから生まれたものです。女性らしさの最もまっすぐな形を表現しているだけなんです」
実際、彼女が言う「女性らしさの最もまっすぐな形」は、驚くほどの反響を巻き起こしている。今年2月に発表された、シェミナにとって最初のランウェイ・ショーは、近年では最も温かく迎えられたコレクションの一つだった。レース素材を用いたシアーなブラウスに、波紋のようなウェーブを描くレイヤードルックなど、ソフトで魅力的なファブリックがいたるところに採用されていた。そこにサイハイ・ブーツやメタリックなベルト、レザーやビニール素材のケープなど、時折登場するハードな印象のピースが絶妙なアクセントを加える。それでいて、どのルックも疑いなくフェミニンなのだ。
モデルたちはケイト・ブッシュの楽曲「クラウドバスティング」が流れる中、ポケットに手を入れ、緩やかなウェーブヘアを弾ませながら、ランウェイを闊歩した。この選曲を手伝ったのは、シェミナの友人で、ロックバンド、フェニックスのベーシストのデック・ダーシー、そしてクロエの音楽コンサルタントを買って出たシェミナの夫のコンスタンティン・ウェラムだった(コンスタンティンの本業は経営コンサルタントだ)。
会場に詰めかけたゲストが現場に満ちた熱気を実感した一方で、このショーのいくつかの場面は、ネットで大いに拡散した。フロントローにずらりと並んだゲストをとらえた写真もその一つだ。写真の中では、リヤ・ケベデ、シエナ・ミラー、パット・クリーブランド、キーナン・シプカが並んでいたが、全員が同じクロエのウェッジソール・サンダルを履いていたのだ。4人の組んだ脚が揃った瞬間をとらえたこのヴィジュアルは天才的なマーケティングとして賞賛され、予期せぬ新たなイット・シューズの誕生につながった。だがシェミナは、これはまったく計画外だったと打ち明ける。バズったブランドの勢いを測るバロメーターとなった高級ブランド品リセールサイト「ザ・リアルリアル」では、ショーの翌日に「クロエ」というワードでの検索数が37%上昇したという。さらに翌月には、130%増という大幅な売り上げアップも記録した。
なぜ、シェミナのデビュー・コレクションは、これほどの好評を博したのだろうか? 「最近のファッションは、実験的でアバンギャルドな要素が強くなっています」と、シエナ・ミラーは指摘する。「でもこのコレクションでは『よかった、私たちもまたクロエ・ガールになれる』と実感できたんです」。彼女の言う「クロエ・ガール」は、ステラ・マッカートニーやフィービーを含む、これまでこのブランドを率いてきたデザイナーによって確立されたイメージだ。その特徴は肩肘張らないボヘミアンなファッションと、楽しいことが大好きで、レイドバックしているが、一本筋の通ったアティテュードだ。そんな女性にはとてもなれないと気後れする人にとっても、「そばにいてくれたらうれしい」「こんな服を着てみたい」と思えるような存在のはずだ。
デビュー・コレクションに臨むクリエイティブ・ディレクターは、自らの政治的な立場を明らかにしなければ、との気持ちに駆られることも多い。このプレッシャーは、女性デザイナーにおいて特に顕著だ。そう聞いて即座に頭に浮かぶのは、ディオール(DIOR)のマリア・グラツィア・キウリの例だろう。彼女は就任後初となる2016年のコレクションで、「私たちは全員、フェミニストになるべき」とのメッセージが書かれたTシャツをモデルに着せ、ランウェイに送り出した。この背景には、ドナルド・トランプが米大統領に選出される直前の、暗い世相があった。そして今、トランプ政権の再来が危惧され、一方でカマラ・ハリス副大統領の大統領選出馬という、一筋の希望が見える状況の中で、この秋に発表される2025年春夏コレクションにも、政治的メッセージがあふれるのは間違いない。
実はシェミナも、こうしたアメリカ政治の動きに密接に関わっている。8月の民主党全国大会で、ハリス副大統領がまとった2着の衣装を提供したからだ。声高にメッセージを掲げることこそないものの、これも力強い支援のサインと言えるだろう。1着目は「ココナッツ・ブラウン」というウィットに富んだ名前がつけられたスーツ、そして2着目は大会最終日、大統領候補に正式に指名されたあとの受諾演説で着用していた、ネイビーのパンツスーツだ。2着ともスローガンやロゴなどはない、プレーンなテイラードスーツだったが、強さと決意というメッセージを確実に伝えていた。「私にとって、クロエを着る女性は、力強い女性性と自信を体現する人たちです」と、全国大会終了の直後に、シェミナは語った。「クロエは着る人の意識を変えるブランドではありません。クロエを着ることの意味は、自分らしさを実感できる点にあります」
ドイツ生まれのシェミナのルーツに迫る
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シェミナの父親、トニーは幼少期をイランで過ごしたが、ドイツで建築を学び、のちにシェミナの母となる、自由を愛する美容師のモニカと出会ったのもドイツでのことだった(ちなみに「シェミナ」という名前は、1961年の映画『エル・シド』でソフィア・ローレンが演じた主人公の恋人、シメン姫にちなんでいる)。「心のおもむくままに生き、冒険心にあふれていて、子どもには世界のあらゆる面を見てほしい、という考えを持っていました」と、シェミナは両親について語る。二人はデュッセルドルフの近くの街、ドルトムントに居を構え、のちにここでブティックを開業した。
幼いころのシェミナは、強い意志を秘めたシャイな子どもで、両親に連れられて見本市に行くのが好きだったという。「あの子はお客さんが試着するのを見るのが大好きでしたね」と、母親のモニカは振り返る。「ある商品をなぜ人が好んだり、嫌ったりするのか、その理由に強い興味を持ち、改良点を提案することもありました」。彼女には、今もドイツに住む、アーティストのアリアンという兄弟がいて、家族4人は固い絆で結ばれている。
シェミナが11歳のとき、一家はカリフォルニア州のオレンジ・カウンティに移住した。英語があまり話せなかったため、彼女とアリアンは心細い思いをしたという。「両親は、『これで子どもたちも強くなるはず』という考えでした」と当時を振り返る。家族はラグナ・ビーチに落ち着き、両親はショップをオープンした。シェミナはここで、西海岸の早熟なティーンたちと友情を育んだ。カリフォルニアのティーンエイジャーはドイツでのクラスメートと比べてはるかに進んでいて「特に女の子は、別のレベルに達していた」という。ちょうど、ニルヴァーナやスマッシング・パンプキンズの全盛期で、MTVやティーン向けの雑誌が花開いていた時代だ。アリアンはサーフィンを始め、シェミナも西海岸のムードにすっかり感化されて「アティテュード、ファッション、音楽、すべてにおいてエフォートレスでレイドバックしたところ」に圧倒されたという。
ファッションデザイナーへの道
当時から、彼女は暇さえあれば、世界各国版のヴォーグから、気に入った写真を切り抜いていた。そして、高校に通う前から、デザイナーになりたいとの思いを抱いていたと語る。「ファッションに囲まれた環境で育ちましたが、(両親が手がけていたアパレル販売は)やりたくなかったんです。服を作りたいと思っていました」
シェミナが高校を卒業するまでに、一家はドイツに戻り、彼女はトリアー大学に進んだ。大学では被服の構成、パターン作成、縫製について学んだが、彼女はこの体験を通じて、自分に欠けているものに気づかされたという。「デザイナーとして、自らのデザイン言語、美学、“筆跡”をつくり上げていくには、技術を学ぶだけでは足りないと悟りました」と、彼女は振り返る。そして別の大学に通っていたコンスタンティンと、とあるパーティーで出会ったのもこのころだった。今では夫になった彼は、彼女の初対面の印象を、「このころからすでに、非常にはっきりとした視点を持っていました」と語る。パーティーで初めて言葉を交わしたときに、シェミナは将来の計画を打ち明け、「パリに行ってデザイナーになる」と告げた。これに対して彼は、「楽しそうですね。僕も一緒に行きますよ」と応じたという。「人生には、何か特別なことが起きていると、直感的にわかるタイミングがあるんです」と、コンスタンティンは振り返る。この夜、二人は電話番号を交換することなく別れたが、数年後に再会して交際をスタートさせ、コンスタンティンが経済学の博士課程を修了するまでの間、遠距離恋愛で関係を育んでいった。
一方で、ロンドンのセントラル・セント・マーチンズに進学する前に、シェミナは学士号取得の条件となっていたインターンシップに参加する必要に迫られた──ここでシェミナ・カマリ神話の第一章となるべく運命づけられた逸話が生まれる。「ドイツで育ち、ファッションを学びたいという志を持つ若い女性にとって、カール・ラガーフェルドは究極のアイコンなんです」と彼女は語る。カールと言えば、シャネル(CHANEL)でのデザインワークが代表作と呼ばれることが多いが、シェミナの心に響いたのは、クロエ時代の彼のデザインだった。知名度の低いドイツの大学出身という事情から、(当時フィービーが率いていた)クロエのインターンに普通に応募しても、あまり興味を持ってもらえないのではと考えた彼女は、パリにあるクロエのオフィスに自ら足を運ぶ作戦に出た。当初は受付係からはにべもなく拒絶されたが、「断られたら鉄道でドイツにまっすぐ帰るしかないんです」と粘り、取り次いでもらう間待つようにとの指示を得た。それから数時間後、彼女はスタジオ責任者との面談の機会を与えられ、2週間後にはインターンとして採用するとの通知を受けた。「若さゆえの無謀さ、ですよね」と、彼女は今、自身の行動を評する。「若いころは恐怖心がないんです。もちろん『無理なことを言っているな』とは自分でも気づいているんですよ。でも怖いとは思わない、という」
晴れてインターンとなったシェミナは、パリ1区のアパルトマンに引っ越した。花柄の壁紙が貼られ、キャビネットの片隅にミニキッチンが設けられ、シャワーの下に便器があるという部屋だった。当時のクロエのスタジオはワイルドな空気に満ちていて、いつも大音量の音楽が流れ、強い主張を持つ女性たちが揃っていた。「私はたちまち、この場を満たすエネルギーに恋に落ちました」と、彼女は振り返る。インターン当時は、1日10時間はコピー機の前に張りつき、ムードボード用にシャーロット・ランプリングやローレン・ハットン、ジェーン・バーキン、ジェリー・ホールといった俳優やモデルの写真をコピーしていたという。ほかのインターンは単純作業に不平たらたらだったが、最年少だったシェミナは、デザインのインスピレーション源をこの目で見られるなんて、素晴らしい機会だと思っていたとのことだ。「この経験が、あの時代を愛する原点になりました。70年代のファッションのシルエットが好きというだけではなくて──当時のスピリットに魅了されたんです」
クロエでのインターンシップを終え、セント・マーチンズに入学したシェミナは、こぢんまりとしたヴィクトリア朝様式の家に引っ越した。この家はロンドンの中でも物騒なエリアといわれていたハックニーにあり、キャンパスへの長い通学時間の間に、バスや地下鉄の中で眠ってしまうことが常だったという。
同級生の中にはすでに自身のブランドを立ち上げ、セント・マーチンズでの修士課程をリセットの機会ととらえている者もいた。そんな中で、シェミナは自分の資質をようやく知りかけた段階だった。そんな彼女の担当教官は、厳しい指導で知られた名物教授のルイーズ・ウィルソンだった(2014年に亡くなった際に掲載された、愛情のこもった訃報記事に、「10月の雨の日に、酔っ払った母親が作ったハロウィーンのコスチュームのよう」という、学生の作品への酷評が引用されていたほどだ)。本気で目をかけている学生に対しては特に厳しくなる傾向があったルイーズはシェミナにも容赦せず、彼女がそれまでコツコツと身につけてきた正確無比なスキルを捨て去るよう指導した。「『あなたって、典型的なドイツ人ね。いつもここにいる。提出物の期限も絶対に守る』と言われていました」と、シェミナは振り返る。「『1週間ずっと、ここに詰めていることは許しません。ナイトクラブに行きなさい』と命じられたこともありました」。だが、そう言われた次の日も、彼女は時間ぴったりに、いつものように登校したという。
2年生になり、当時の慣習で学生の半分が学校を去ると、この関係にも変化が見られた。ルイーズからの酷評は、より直接的にシェミナに浴びせかけられるようになっていった。「教授は、学生のすべてを引き出したいと思っていただけなんです。それには、どんなにつらくても、本当の自分と向き合わなければならないという考えでした。厳しい指導も、この業界でやっていくためには必要な準備だったと思います」
卒業時には、シェミナはロンドン・ファッション・ウィークで自身の作品を披露する、一握りの学生にしか与えられない栄誉を得た。起用するモデルについて悩んだ彼女は、ルイーズの教官室に毎日20回は通ったが、自らが抱えた課題の困難さに、ついには泣きついたという。「そのときも教授は、『自らのヴィジョンの完璧さを信じなさい。うまくいかなかったからといって、謝って済ますことは許しません。本当に細かいディテールまで考え抜き、それを実現するために戦いなさい。それが違いを生み出すのだから』の一点張りでした」
言うまでもないが、エフォートレスに見えるものほど、その裏には多大な努力があるものだ。シェミナが10代のころに目にした、レイドバックしたカリフォルニアのサーファーも、太陽のもとで長時間汗を流し、練習に励んでいる。クロエでの軽やかなデビュー・コレクションは、見た目こそまるで空から降りてきた雲のようだったが、そこには数十年にわたり磨かれてきた、シェミナの熟練の技がある。
再びクロエへ
セント・マーチンズを卒業後、アルベルタ フェレッティ(ALBERTA FERRETTI)に勤めたのち、シェミナはストラネスに籍を移した。ストラネスはガブリエル・ストレーレが率いるドイツのヘリテージ・ブランドで、90年代にはクリーンで丁寧に仕立てられたミニマリズム・スタイルで一世を風靡した。ニューヨークのダウンタウンにあるギャラリーのオーナーが好みそうなスタイルだ。当時、シェミナのメンター的な役割も果たしていたガブリエルは、「最初に会ったときから、集中力と志の高さを感じました」と彼女を評価する。「でもそれだけでなく、自らのスタイルを見つけ出すために、さまざまな流れ、アイデア、ヴィジョンをすべて吸収することをいとわない、そうした意志もはっきりと見てとることができました」
その後シェミナはかつてインターンを務めたクロエに帰還し、クリエイティブ・ディレクターのクレア・ワイト・ケラーのもとでシニア・デザイナーに任命された。その後は2016年にサンローラン(SAINT LAURENT)に移籍している。さらに、ロサンゼルス近郊のカルバーシティにあるデニムブランド、フレームの本部でごく短期間働いたのち、2023年10月にクロエを率いるディレクター職のオファーを受けた。
ロサンゼルスでの生活は、この地で10代を過ごし、ビーチの記憶を今も胸に抱くシェミナにとって、長年の夢だった。だがクロエからのオファーを受けたとあっては、彼女と夫のコンスタンティンに、西海岸での冒険を早々に切り上げる以外の選択肢はなかった。パリにとって返したとき、夫妻の使っていた家具の一部は、まだアメリカに運ばれる途中だったという。
こうしてクロエに帰還を果たしたシェミナは、今年2月のデビュー・コレクション発表までの数カ月間を、「誰の目も届かないところで密かに潜伏していた」と表現する。「私たちは“バブル”の中に隔離されているようでした。そのおかげで、状況をコントロールすることができました」と言うと、最初のショーに向けて、寝るのも忘れ、とりつかれるように働いた日々を、ディテールを交えて説明してくれた。ショーの前夜には、シェミナはチームとともに、真夜中までモデルのフィッティングに励んだ。午前1時に自宅にたどり着いたシェミナは、横になったものの何時間経っても眠れず、ついにはあきらめて朝の5時半に起きて出発することにしたという。家を出ると、夜明け前の薄明かりの中で、隣人が手を振り、幸運を祈ってくれた。
その数日前に、シェミナは以前から病状が思わしくなかった父親を突然失っていた。父親の体調がまだ比較的良かった時期に、クロエのトップに就任したと報告したところ、志を持つ娘の姿を覚えていた 父親は、にわかに覚醒したという。「父にはわかっていたはずです」と彼女は言う。最初のショー開催までの日々を、シェミナは「人生に起きる、あらゆる試練に襲われた」と表現する。「どうやって乗り切ったのか、正直自分でもわからないほどです。ショック状態で、体と頭が普段ならあり得ないモードに入っていたんだと思います。父ならきっと『絶対にやり遂げなければならないよ。集中してやり抜くんだ』と言っていたはずです。その確信が後押しになったんだと思います」。結果的に大成功を収めたとはいえ、「私の人生で最もつらい日々」でもあったと、彼女は振り返る。
Photos: INEZ & VINOODH Runway Photos: Gorunway.com Styled: Amanda Harlech Text: Chloe Schama Translation: Tomoko Nagasawa For Kamali Hair: John Nollet Makeup: Karin Westerlund For Angelina Hair: James Pecis Makeup: Lisa Butler
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