2011年の日本は、震災の年だった。3月11日に東日本大震災と原発事故が発生。あなたはどこで、何をしていただろうか。私は東京で子育てをしていた。ラジオの生放送の真っ最中に揺れた。揺れながら喋った。実はその日は、新品のバッグを下ろしたばかりだった。一点もののパイソンの特大サイズのバッグ。こんな恐ろしいことが起きたのは、大蛇の祟りなのではという思いが頭を掠めた。ばかげた連想だが、突如強い恐怖と不安に見舞われると、何かに理由を求めたくなるものなのだろう。地震と津波と原発事故は、想像を絶するものだった。大蛇のバッグはしばらく使って、手放した。以来、希少な素材を使ったものは買わなくなった。津波による浸水が怖くて、それから8年間、地下鉄に乗れなかった。これもばかげていると笑う人がいるだろう。震源から離れた東京で揺れを経験した私ですら自分でもどうすることもできないトラウマが残ったのだから、被災地の方々はどれほどの傷を負ったであろうか。暮らしと心の復興には長い長い月日がかかる。
当時住んでいた渋谷の住宅地は、地震発生から程なくしてゴーストタウンのようになった。原発事故の影響から逃れるために多くの住人が関西や海外に避難したのだ。けれど、私たち一家はそこに残って、「長期にわたって飲み続けなければ健康に影響はない」程度の放射性物質入りかもしれない水道水を飲んで生活した。頼れる先もなければ、東京を離れられる仕事でもなかったからだ。震災前の日常に、二度と戻れないことがつらかった。でも本当はいつだって、過去には二度と戻れないのだ。そういうことを思い知らされた日々だった。
同年8月号のヴォーグ ジャパンは「SIMPLE PLEASURE/『シンプルな歓び』で心を満たす大特集」を掲げている。コレクションにこれといったトレンドがなかったことから、ファッションに関する個人のストーリーに注目する意図で組まれたようだ。著名人たちが愛用のぬいぐるみやマカロンや貝殻なんかを紹介している。別のページでは、リラックスした青いワンピース姿のグウィネス・パルトロウが料理の腕前を披露している。
最近では、スキー事故で訴えられた際の法廷ファッションでクワイエット・ラグジュアリーブームを起こしたグウィネス。みんな、彼女のことが大好き!というわけでもなさそうなのに、ライフスタイルやファッションをこぞって真似するのは何ゆえか。しかしちょっとわかる気がする。この世には、親の部屋に転がっている服を着たら全部シャネルとエルメスでしたという子や、冷蔵庫に入っている野菜が全部有機野菜でキッチンに置いてある油を適当にかけたら最高級のエクストラバージンオリーブオイルでしたという子がいる。そういう、なんでもないようなことがいちいち高級な生活を、さして特別とも思わずに育った人は独特の余裕を身につけているものだ。それは高慢さと一体なのだけど、余裕があるから高慢さすらも力が抜けていて、リラックス高慢っておしゃれ! みたいなことになっている(グウィネスがどんな人かは、会ったことがないのでわからない)。
シンプル・プレジャーは、本来は素朴な喜びを指す。きっと、深い悲しみとショックの中にあった日本ではそういうささやかな喜びは特別の意味を持っただろう。今年は能登半島が大きな揺れと津波に見舞われた。被災時には、もちろん衣食住の支援が必要である。でも、それさえ揃えばいいわけではない。あらゆるお気に入りや慣れ親しんだ日用品が失われた生活は、さぞ心細く、つらいだろう。普段は気にもかけない身の回りのささやかなものたちに、私たちは支えられている。被災した人々がお気に入りのものに囲まれて、居心地よく過ごせるようになるまで、息の長い支援が必要だ。
2011年当時の私のささやかな喜びはなんだったろうかと振り返ると、ベランダの金魚だった。鉢の中を泳ぐのを飽かず眺めたものだ。小指の先ほどだった金魚たちは、お稲荷さんぐらいになった。2024年現在のささやかな喜びは、ベランダの一つきりの鉢に水をやることだ。変わっていない。対象が動物から植物になっただけだ。たまに写真を撮ってインスタにあげるがもちろん映えない。そういえば金魚の写真をアップしただろうかと思い出すも記憶がない。インスタがこの世に降臨したのは2010年10月だから、2011年はまだ牧歌的な世界だったろう。インフルエンサーが鎬を削るアテンションエコノミーの狩り場と化す前のことだ。
なんでもシェアするのが当たり前になって、今はささやかな喜びにも、常に他者の視線が入り込んでいる。他者といってもそれは自分の中にビルトインされた幻想の観客たちの視線だ。花を撮る。食事を撮る。みんな忙しい。そろそろ誰にもシェアしない喜び、クワイエット・プレジャーとでもいうべきものに回帰したい気分である。日常は映えないものだ。映えないものたちが、人を生かしている。
Photos: Mario Sorrenti (cover), Daigo Nagao (magazine) Model: Daphne Groeneveld Text: Keiko Kojima Editor: Gen Arai
今回振り返るのは、“女の人生”は満開ですか? のタイトルが表紙を飾る2002年5月号。価値観が多様化し、技術が進化を遂げてきたこの20年間で、女性をとりまく環境は果たしてどのくらい向上したのだろうか。今、「女らしい」という言葉を使うことに違和感を感じたり使うことを躊躇したりするのは、女性が本当の自由を手に入れられていないからかもしれない。

経済や文化のグローバル化が進む中で、世界におけるアジア諸国の影響力は年々強くなっている。そんな新たなアジアン・パワーを紹介する今月号にちなんで今回ピックアップするのは2013年4月号。バロック的な視点で日本美を追求したパワフルな一冊からは、今こそ私たちが向き合うべき「日本らしさ」とは何か、そして「それは誰/どこからの視点か」が大切なのだと教えてくれる。
