監督の名前で観たい作品を選ぶ。そんな人にとって、ここ数年、上位にランクされるのが、ヨルゴス・ランティモスではないだろうか。その最新作『哀れなきものたち』は、ランティモス“らしさ”が散りばめられながら、さらに別次元へ進化し、より広範囲の観客を満足させる……という印象だ。昨年9月に第80回ヴェネチア国際映画祭で最高賞の金獅子賞に輝いて以降、アカデミー賞へ向けた賞レースでも受賞やノミネートを重ねており、まさに1年を代表する1本となった。
新たなステージに突入した最新作『哀れなるものたち』
ヨルゴス・ランティモスはギリシャ出身の鬼才。『籠の中の乙女』(2009)では、子どもたちを無菌状態で隔離する両親の物語に、過激な描写もたっぷり盛り込んで世界に衝撃を与えた。続く『ロブスター』(2015)は、ホテルに送られた者たちが、パートナーを見つけられなければ動物の姿に変えられてしまうというシュールな世界観を展開。そして18世紀イングランドでアン女王と2人の女官の駆け引きをコミカルかつ強烈な会話で描いた『女王陛下のお気に入り』(2018)だ。これまでのランティモスの映画は、独自の方向性に振り切ったものばかりで、しかも常に映画祭や映画賞を賑わせてきた。オリヴィア・コールマン主演の同作は、アカデミー賞で9部門10ノミネート(助演女優賞でエマ・ストーンとレイチェル・ワイズの2人)を達成している。これだけハイアベレージな映画監督は世界的にも稀だ。
そんなランティモスの最新作ということで、『哀れなるものたち』には高い期待がかけられていた。しかし予想を軽々と超える作品を送り出したところに、彼の凄さがある。
原作が存在するとはいえ、設定自体はまたもやセンセーショナルだ。その意味ではランティモス向きの題材。人生を悲観して自ら命を絶ったベラ。ところが天才外科医ゴッドウィン・バクスターの手によって彼女は蘇生してしまう。あろうことか、ベラには胎児の脳が移植されたのだ。肉体は大人。精神は赤ん坊。そんな状態からベラの新たな人生がスタートする。やがてベラに想いを寄せる弁護士ダンカン・ウェダバーンが現れ、彼に誘われるようにベラはヨーロッパ各国への旅に出る……。
俳優たちの怪演
まず心をざわつかせるのは、ゴッドウィンの“マッドサイエンティスト”的な言動。狂った論理で自分の野望を達成しようと、実験台にベラを選んだわけで、そのモラルのなさにまったく共感できないのだが、演じるウィレム・デフォーによって、この強烈なキャラクターがどこか憎めない人物へと変換される。デフォーの演技が受け身的で控えめなのは、エマ・ストーンが演じるベラを引き立たせるためだろう。それくらい、ストーンが体現するベラのインパクトは凄まじい。
目にする物、手に取る物、ベラにとってはすべてが新たな発見となる。人間が初めて体験することに、大人の身体で反応しなくてはならないのだが、ストーンの表現する驚きや喜び、戸惑いには、あらゆるテクニックがつぎこまれ、“演技の究極点”を実感させる。やり過ぎたらコメディになってしまうし、ベラには“性のめざめ”という通過儀礼でかなり際どい描写が用意されるが、ギリギリのところで品格を保って表現するのも、ストーンの才能だ。
ストーンといえば『アメイジング・スパイダーマン』(2012)のヒロインを経て、『ラ・ラ・ランド』(2016)でアカデミー賞主演女優賞を受賞。ハリウッドスターとして理想的なキャリアを積みつつ、このような野心的プロジェクトにも果敢にチャレンジするスタンスに感心する。ランティモス監督とは前作『女王陛下のお気に入り』でも組んでいるので、演技者として安心して身を任せられたのだろう。また、ベラの外見として違和感のあるほど太い眉が印象的だが、メイクアップを担当したナディア・ステイシーは、『女王陛下〜』だけでなく、ストーンがディズニーの有名なヴィラン(悪役)を演じた『クルエラ』(2021)も手がけており、気心の知れたスタッフとの信頼関係が、役の個性を作り出すというプロセスを実感させてくれる。
旅に出て、大人としての知識を手に入れ始めたベラは、別の意味で危うい行動もとるのだが、ここでもエマ・ストーンがリミッターを外し、文字どおり体を張った熱演を続けていく。俳優という職業は、ここまでやらなければいけないのか。いや、ここまでやれるから俳優なのだと、本作の彼女はアピールしているかのようだ。今年のアカデミー賞に向けて、ストーンがフロントランナーの一人であることは十分に納得できるだろう。
そしてウィレム・デフォー、エマ・ストーンと対照的な演技をしているのが、マーク・ラファロだ。ベラに新たな世界を案内する“指南役”ながら、男性優位主義をちらつかせ、思い通りにいかないと破滅的になる傾向もあるダンカンを、ときに自虐的に演じる。このダンカンをはじめ男たちは、ベラの人生にとって反面教師として登場する。とくに旅先のパリでの彼女の体験(これは、予備知識ナシで観ることを薦める)は、目を疑う過激なシーンとともに、ベラのピュアな目線でジェンダーや人種の問題を突きつけてきて、鳥肌が立つような衝撃をもたらす。実際に「人生を変える」という意味で、パリでの一連のシーンには本作の芯となるテーマが凝縮され。このあたりにもヨルゴス・ランティモスの鋭利なセンスに感嘆するしかない。
このように物語やテーマだけ眺めると、一人の女性の成長を通し、フェミニズム的要素も色濃い骨太な作品のようだが、実際は、おとぎ話の絵本のページをめくっていくような、幻想的でロマンティックな感触なのも『哀れなるものたち』の大きな魅力。美術で魅せるという意味で、じつに映画的なのだ。
映画は美術作品になり得るのか
背景となる時代は明示されないが、ヨルゴス・ランティモス監督が本作のインスピレーションを受けたのは、1930年代の映画だという。冒頭のゴッドウィンの実験室のような屋敷から甘美なノスタルジーで満たされているし、ロンドンに始まり、リスボン、アレクサンドリア、パリ、そして途中の船上も含めたベラの旅では、クラシカルな建築や家具などのアイテム、衣装に、ポイントでは大胆なアレンジのデザインがほどこされ、美術館に迷い込んだような体験に……。
なかでもベラの衣装が彼女の心の成長とともに変化するさまは、観ていて感動的だ。最初はヴィクトリア朝のブラウスなど男性側から“着せられている”イメージなのだが、終盤にかけて自立心がそのスタイルに反映されていく。ほかにも、あえて合成感を強調した風景や、モノクロのシーンが絶妙なアクセントとなり、懐かしさと先鋭さが融合した映像美で陶酔させたりもする。とにかく視覚的に楽しめる作りなのだ。
物語にしても、映像にしても、映画という芸術はどこまで自由に表現できるのか。そこにランティモス監督は挑戦しているように感じられる。あまりに自由すぎると、映画を観る側は混乱をきたすし、作品として収拾がつかなくなるリスクも抱える。『哀れなるものたち』は、たしかに激しく心をざわめかせ、かき乱す瞬間はあるにせよ、物語が美しい流れを作って観る者の心に沁みわたってくるという、映画のマジックが働いている。それは、ベラの太く力強い眉に象徴されたように、物語に対する作り手の強靭な意思がブレなかったからかもしれない。
『籠の中の乙女』や『ロブスター』で観る者を挑発し、『女王陛下のお気に入り』でその挑発が余裕の域に達したヨルゴス・ランティモス監督だが、『哀れなるものたち』は、その挑発を映画芸術=アートへと進化させ、成功に導く作品となった。ここまで到達したら、次にどんな映画を撮るのだろう? われわれにはまったく想像すらできないのも、ランティモスなのである。
Text: Hiroaki Saito