FASHION / TREND & STORY

2022年この世を去ったファッション界の偉人たち

2022年は多くの華やかなニュースがファッション界を賑わせた一方で、三宅一生や森英恵、ティエリー・ミュグレーなど、長年にわたってこの業界を支えてきた偉人たちとの別れも経験することになった。彼らの人生とその輝かしい功績を振り返る。
森英恵 ハナエモリ

ファッションは、コミュニティを築くことができる。今年惜しくもこの世を去った偉人たちは、それぞれの仕事を通じて人々の心を動かし、その革新的なヴィジョンでこの業界を動かした。ファッションの力を私たちに信じさせてくれた彼らのストーリーは、これからも永遠に語り継がれるだろう。2022年も終わりが近づく今、彼らが残した大きな足跡にもう一度スポットライトを当てたい。

ロクサンヌ・ローウィット/写真家 没80歳

2007年、ロクサンヌ・ローウィット。

Photo: Chance Yeh / Patrick McMullan via Getty Images

モデルたちの素顔やランウェイの舞台裏を切り取ったドキュメンタリータイルの写真を通じて、ファッション界の華やかさを他とは異なる視点から発信したロクサンヌ・ローウィット。ファッション工科大学(FIT)を卒業後、テキスタイルデザイナーとして働いていた彼女は、アーティストのアントニオ・ロペスからカメラを贈られたことをきっかけに写真家へと転身。その後すぐに、ニューヨークの週刊誌SoHo Weekly Newsでパリコレ取材の仕事を獲得した。

当時ランウェイショーの表舞台は男性中心だったため、彼女はバックステージやアフターパーティーなどに潜入して自分の居場所を見出すことで、女性フォトグラファーとしての地位を不動のものとした。

ウィリアム・クライン/写真家 没96歳

2006年パリにて。当時、ディオール オムのクリエイティブディレクターを務めていたエディ・スリマンと。

Photo: Serge Benhamou / Gamma-Rapho via Getty Images

フォトグラファー兼映像作家のウィリアム・クラインが亡くなったのは、故郷ニューヨークで開催された回顧展の閉幕直前のことだった。展覧会のタイトル「Yes」は、彼が語った言葉からインスパイアされたもの。「私はどんな仕事にも『Yes』と言ってきた。もし機会があれば、それがたとえ自分が得意とする分野から外れていたとしても、何でもやってきた。それが次の何かに繋がるかどうかは、やってみないとわからないのだから」

軍隊を経てパリに移住したクラインは、フェルナン・レジェのもとで絵画を学び、リアリズムから抽象へと作風を急速にシフト。その後インテリアデザインのプロジェクトに携わるうちにカメラワークに興味を持つようになり、抽象からリアリズムへと再び目を向けるようになった。1965年から1966年にかけて『VOGUE』に在籍していたクラインは、代表作『ポリー・マグーお前は誰だ』(1966)のように、業界の作為的なイメージメイキングに一石を投じる作品を作り続けた。

森英恵/ファッションデザイナー 没96歳

2000年春夏コレクションのランウェイにて。

Photo: Victor VIRGILE/Getty Images

蝶をモチーフにしたデザインで知られ、「マダム・バタフライ」の異名で世界中に名を馳せた森英恵は、日本のファッションを世界へと押し進めた第一人者だ。1926年に島根県に生まれ、東京女子大学で国文学を学んだ後、ドレスメーカー学院(旧女学院)に通って洋裁技術を習得した。

1951年には銀座に自身の名を冠したショップを構え、1965年にニューヨークで初めてコレクションを発表。着物を着想源にしたドレスなど、東洋と西洋の要素を美しく織り交ぜたデザインで賞賛を浴びた。欧米のデザイナーを東京に招くなど、ファッションにおける東西交流にも注力。1977年には日本およびアジア出身者として初めて、ラグジュアリーファッションの最高峰とされるパリのオートクチュールの会員に認められた。

エリック・ボーマン/写真家 没76歳

2007年、ダイアン・フォン・ファステンバーグとともに。

Photo: Stephen Lovekin/Getty Images

左からエリック・ボーマン、ナオミ・キャンベル、マノロ・ブラニク。

Photo: Bryan Bedder/Getty Images

スウェーデンに生まれ、ロンドンの名門ロイヤル・カレッジ・オブ・アートで学んだエリック・ボーマンは、鋭いウィットと華やかさを持つ多面的なフォトグラファーだった。1970年代初期はイラストレーターとして活躍していた彼は、当時『Harpers & Queen』に在籍していたアナ・ウィンターから依頼された取材でパートナーのピーター・シュレシンジャーのカメラを借用した。その後、ボーマンは「『VOGUE』のために、美しいものすべてを捉える写真家」として信頼を獲得。ウィンターは「彼はファッションを理解し、敬愛していました」と話し、「客観的な視点も持ち合わせ、その多彩な才能で常に人の一歩先を行っていたのです」と評した。

三宅一生/ファッションデザイナー 没84歳

Photo: Gianni GIANSANTI/Getty Images

世界とファッションに対して、常に広い視野を持っていた三宅一生。1970年に自身のブランドを立ち上げ、パリでも活動するようになると、その名を世界に轟かせるようになった。代表作のプリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ(PLEATS PLEASE ISSEY MIYAKE)の出発点となったのは、世界的振付師のウィリアム・フォーサイス率いるフランクフルト・バレエ団とのコラボレーション。「デザインはすべてが交差するものであり、アートやデザインなどの創作活動に境界線はない」と語った言葉通り、ファッションの領域を超えた自由な発想で世界を魅了した。

1994年にメンズウェア、5年後にウィメンズウェアのクリエイティブディレクションからは退いていたが、その後もビジネスを指揮。素材と技術の革新、そして身体と衣服の相互作用を探求し、ファッションの見方を変えた業界の巨人として、世界中のデザイナーたちに多大なるインスピレーションを与え続けた。

ロン・ガレラ/写真家 没91歳

1978年、ロン・ガレラとアンディ・ウォーホル。

Photo: Images Press / IMAGES / Getty Images

パパラッチの元祖として世界に名を馳せるロン・ガレラ。イタリア系移民の息子としてニューヨークに生まれた彼は、朝鮮戦争でアメリカ空軍に従軍しながら写真家としての経験を積み、その後カリフォルニアでフォトジャーナリズムの学位を取得。ニューヨークに戻った後はカメラを携えて街へと繰り出し、ジャクリーン・ケネディをはじめとする著名人たちの無防備な姿をありとあらゆる角度から捉えた。

ジョーダン(パメラ・ルーク)/パンクアイコン 没66歳

1977年、ジョーダンとシックス(サイモン・バーカー)。

Photo: Daily Mirror / Mirrorpix via Getty Images

パンクアイコンとして知られるジョーダンことパメラ・ルーク。イギリスのサセックスに生まれ、その型にはまらない独自のセンスを貫いたことから学校を退学に。彼女のメッカであったロンドンは老舗デパートのハロッズで短期間働いた後、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンが立ち上げた伝説のブティック「セックス」のメンバーに加わり、すぐに店の顔となった。

マクラレーンがマネージャーを務めていたセックス・ピストルズとアダム・アンド・ザ・アンズの成功に導かれ、その過程でデレク・ジャーマンが手がけた2本の映画に出演。彼女自身もパンクシーンのスターとなった。パンクロック史に刻まれる問題作でセックス・ピストルズのデビューシングル、『アナーキー・イン・ザ・U.K.』がイギリスのテレビで全国放送されたときには、観客の先頭に立つジョーダンの姿が映し出され、「Only anarchists are pretty(アナーキストだけが可愛い)」と書かれたTシャツが話題となった。

パトリック・デマルシェリエ/写真家 没78歳

2012年ニューヨークにて。パトリック・デマルシェリエとアナ・ウィンター。

Photo: Dimitrios Kambouris/Getty Images

独学でフォトグラファーになった、フランスのル・アーヴル出身のパトリック・デマルシェリエ。自然体のエレガンスをバランスよく取り入れたスタイルで『VOGUE』ではグレース・コディントンと密接に仕事をし、1989年にはダイアナ元妃のポートレイトを撮影するなど、その輝かしい功績からフランス芸術文化勲章、CFDA賞など数々の賞を受賞。揺るぎないレガシーを築きながらも、デマルシェリエは2018年の#MeToo運動でセクハラで告発された多くの写真家の一人となったが、彼はこの疑惑を否定。

「フォトグラファーは服を素晴らしく見せなければならない、そうして私たちは報酬を得るのだ」と2012年のインタビューで語り、「私はポジティブな視点を持っている」と述べた。

パブロ・マンゾーニ/メイクアップ・アーティスト 没82歳

1965年。

Photo: Doreen Spooner / Mirrorpix / Getty Images

イタリアの貴族の家に生まれたパブロ・マンゾーニは、人脈を通じてローマのエリザベス・アーデンでの仕事を獲得。ソフィア・ローレンなど著名人たちのメイクを担当し、その自由なアプローチで瞬く間にその名を業界に知らしめた。 また、デザイナーたちとコラボレーションしながら、ファンタジーの要素を盛り込んだ独創的なルックを次々と生み出したことで業界のスター的存在に。

1965年、ニューヨークのエリザベス・アーデンに移った翌年、マンゾーニはメイクアップ・アーティストとして初めてコティ賞を受賞。「メイクというものを、誰が手がけたかもわからないただのお飾りから、ファッションの重要な構成要素へと押し上げた人物」と絶賛された。

アンドレ・レオン・タリー/ファッション・ジャーナリスト 没73歳

1999年、メットガラにてアナ・ウィンターと。

Photo: Rose Hartman/Getty Images

「ファッション界の神託者であり、まったく独創的な人物」。これは、US版『VOGUE』エディターのヘイミッシュ・ボウルズがアンドレ・レオン・タリーを適切に表現した言葉だ。ワシントンDCで生まれ、ノースカロライナ州ダーラムで祖母に育てられたタリーは、ブラウン大学でフランス文学を専攻。ニューヨークに渡り、メトロポリタン美術館のコスチューム・インスティチュートでダイアナ・ヴリーランドに師事。その後、アンディ・ウォーホルが創刊したインタビュー、ウィメンズウェア・デイリー(WWD)、ニューヨーク・タイムズ誌などで経験を積んだ。

1983年にファッションニュース・ディレクターとしてUS版『VOGUE』でのキャリアをスタートし、5年後には黒人男性として初めてクリエイティブ・ディレクターに就任。ウーピー・ゴールドバーグはドキュメンタリー映画『The Gospel According To André』(2017)でアンドレについて、「彼はまるでロケットのようでした。とてもスペシャルな人」と語っている。ボウルズもまた、「アンドレとの時間は輝かしいものだった。彼は常に一線を画していた。ありとあらゆる場面で、多様性を前面に押し出した人」とその偉大な功績を称えた。

マンフレッド・ティエリー・ミュグレー/ファッション&コスチューム・デザイナー 没73歳

1995-96年秋冬オートクチュールコレクションにて。

Photo: Condé Nast Archive

ファッション界の偉大なショーマンのひとり、ティエリー・ミュグレーが手がけた作品には、力強さとファンタジーが宿されている。そしてその魅力はいつの時代も色褪せることなく、ビヨンセカーディ・Bキム・カーダシアンといったセレブたちが今もミュグレー(MUGLER)のアーカイブピースをこぞって纏っているのがその証拠だ。

フランスはストラスブールに生まれたミュグレーは、オペラのダンサーとして訓練を受けた。1966年にパリに移住し、7年後に自身の名を冠したメゾンを設立。1992年には今やベストセラーとなったフレグランス「エンジェル」を発売し、同年にジョージ・マイケルの「トゥー・ファンキー」のミュージックビデオの監督を務めるなど、既存の枠にとらわれずに活動の幅を拡大。その10年後に彼はファッション界を離れ、シルク・ドゥ・ソレイユと仕事をするようになり、彼の才能は別の領域でも発揮された。

ギャスパー・ウリエル/俳優 没37歳

2014年、ギャスパー・ウリエル。

Photo: Valerie Macon / WireImage

パリ郊外でファッションデザイナーの父とスタイリストの母の間に生まれた俳優のギャスパー・ウリエル。 エディ・スリマンが手がけるディオール オム(DIOR HOMME)の2003-04年秋冬のショーでランウェイモデルを務め、2014年の映画『サンローラン』では主演に抜擢されたり、シャネル(CHANEL)のフレグランス広告の顔になるなど幅広い活動を見せるも、彼の心は常に俳優業に向いていた。テレビから映画へと活躍の場を移したウリエルは、セザール賞に2度輝いている。

ピーター・イダルゴ/ファッションデザイナー 没53歳

2007-08年秋冬コレクションのフィナーレにて。

Photo: JP Yim / WireImage

ドミニカ共和国出身のピーター・ヒダルゴは、アントニオ・ロペスを通じてニューヨークのダウンタウンクラブやファッションシーンへと引き込まれていった。彼にアートスクールをすすめたのもロペスだったという。長年にわたって反逆のデザイナー、ミゲル・アドローバーと仕事をし、その後独立。女性のためのテーラードスタイルを発信し、2010年にはファッション・グループ・インターナショナルの「RISING STAR AWARD」を共同受賞している。近年はキャリアをスタートさせた当初と同様、プライベートクライアントのためにデザインを行なっていた。

ニノ・チェルッティ/ファッションデザイナー 没91歳

1995年、セルッティのバックステージにて。

Photo: William Stevens / Gamma-Rapho via Getty Images

「スタイルとは、バランス。そこに、ドラマチックなひねりを加えたもの」。1881年に彼の祖父が創業したテキスタイルビジネスを受け継いでから約70年後の2021年、イタリア版『VOGUE』のインタビューでこう語ったニノ・チェルッティ。1957年に発表したデビューライン「ヒットマン」は、「彼は初めてメンズのフォーマルスーツを解体し、ジェンダーレスな衣服をメインストリームへと押し出した」と評された。

「身体にまとわりつき、拘束し、動きや思考の表現の邪魔となるようなものを嫌悪した」というチェルッティのもとで6年間を過ごしたジョルジオ・アルマーニは、これらの革新性を自身のデザインの出発点にしている。ファブリックにこだわり続けた彼は、素材とシルエットが持つ豊かな表現力を日常のワードローブだけでなく映画界にも持ち込み、『ナイルの宝石』(1985)や『The Proprietor(原題)』(1996)の衣装を担当。カメオ出演も果たしている。

ドロシー・マッゴーワン/モデル 没82歳

映画『ポリー・マグーお前は誰だ』(1966)のポスター。

LMPC/Getty Images

1960年から1962年にかけて、US版『VOGUE』の表紙に幾度となく登場したドロシー・マッゴーワン。黒髪で色白、クララ・ボウやベティ・ブープを彷彿とさせる大きな瞳が印象的な彼女は、自分の容姿について「私はブルックリン出身の至ってふつうの子どもで、たいした美人ではなかった。ダンサーになるためにレッスンを受けていたので、それなりの気品はあったのですが、背が高すぎたんです」と語っている。

「ある日、ニューヨーク・タイムズ誌に掲載された『ファッション研修生募集』の広告が目に止まったので、応募してみました。審査員のカメラマンが『よくわからないけど、この子は何かを持っている。この子には、何か不思議な魅力がある」と言ってくれたんです。その半年以内には、あのアーヴィング・ペンと仕事をするようになっていました」。彼女のアイコニックなルックスは映像作家のウィリアム・クラインの目に留まり、『ポリー・マグーお前は誰だ』(1966)の主演を決めた。

Text: Laird Borrelli-Persson Adaptation: Motoko Fujita
From VOGUE.COM