幼い頃からスターの座に
1966年5月16日に、“ジャクソン・ファミリー”の10人兄弟の末っ子として誕生したジャネット・ジャクソン。残念ながら兄のブランドンは生まれて間もなく亡くなってしまったため、一緒に育ったのは8人の兄姉だったが、兄たちはジャネットが3歳のときに「ジャクソン5」としてデビューし、すでにスターの座を手にしていた。8歳年上の兄マイケル・ジャクソンをセンターに、兄弟バンドとして人気を博した「ジャクソン5」は、1975年にレコード会社の移籍により(権利の関係上)バンド名を「ジャクソンズ」に改名。移籍の翌年に、「ジャクソンズ」出演のTVコメディ番組「The Jacksons(原題)」がスタートし、ジャネットは9歳でこの番組に出演していた。
番組自体は1シーズンで打ち切りになってしまったが、ジャネットは役者としてのキャリアを選び、1976年には人気コメディショー「Good Times(原題)」で本格的に俳優デビューをする。1980年代前半までは俳優活動を中心としていたが、父親の意向によりシンガーとしてキャリアを歩むことになり、1982年にソロデビューアルバム『Janet Jackson』をリリースする。
幼少期には人種差別を体験
一家は1971年に黒人の人口が半数以上を占めるインディアナ州のゲーリーから、ロサンゼルス州に拠点を移し、同州のエンシノに豪邸を購入した。9人の大所帯で寝室は2つというインディアナの家と違い、新居は寝室だけで6部屋もある大豪邸。しかし、そこは完全な白人コミュニティで、一家は同地に越してきた初の黒人住民だったことから、近所や学校では人種差別にあい、ジャクソン一家に街から出て行って欲しいという嘆願書が出回っていたという。当時まだ小学生だったジャネットは、街を歩いているだけで差別用語を投げかけられたり、学校では髪の毛や肌の色を珍しがられて触られていたそうだ。友だちも少なかった彼女だが、その代わりすでに音楽を生業にしている兄たちの練習の輪に参加するなどして、楽しみを見出していたのだという。
体重の増量による体型変化が隠し子騒動に発展
80年代当時、ジャクソン家と同様に人気を博していたファミリーグループのデパージ家の6男、ジェームズ・デバージと、18歳のときに駆け落ち同然で結婚をしたジャネット。ドキュメンタリー『ジャネット・ジャクソン 私の全て』で彼女は、「ドラッグ服用者を好きになってしまう」と自身の恋愛が失敗に終わる要因を語っているように、デパージもドラッグ中毒者で、結果的にこの結婚は1年足らずで破綻してしまう。
ところが、ジャネットには当時からそのデパージとの間に隠し子がおり、ジャネットの姉がその子を育てているという噂がささやかれていた。その発端となったのが、彼女の体型の変化だった。もともとストレスがたまると過食気味になってしまうタイプで、さらに当時は服用していた避妊用ピルの副作用で体重が増えてしまっていたのだ。しかし、怖いのはこの噂がごく最近まで語られていたこと。そんな噂を、ジャネットは約40年越しにドキュメンタリー内できっぱりと否定した。
大好きな兄マイケルとの切ない思い出
1990年初頭、アルバムが次々とヒットを飛ばし、爆発的人気を誇っていたジャネットは、コカ・コーラ社のイメージキャラクターの起用がほぼ決定していた。しかし、1993年にライバル会社であるペプシ社と契約していた兄マイケル・ジャクソンに少年虐待疑惑が勃発したことから彼女も汚名を着せられ、コカ・コーラ社との契約はなかったことに。兄のスキャンダルのおかげで、彼女は巨額契約を失った。連帯責任を負わされる形になったジャネットだがそれでも彼女は兄を信じ、兄からのコラボ依頼を快諾する。
その結晶が1995年にリリースされた「スクリーム」だ。ところが、大好きな兄と昔懐かしい楽しいひとときを過ごせると期待していたジャネットの思いに反し、周囲は兄妹を競わせるように仕向けて収録も昼夜バラバラに行われ、まるで兄とケンカをしているような気分を味わったという。彼女はそこで、もはや昔のようには戻れないことを悟るのだった。それでも、ジャネットは兄を支持して愛し続け、2009年にマイケル逝去後に行われたMTVビデオ・ミュージック・アワードの追悼ステージでは、素晴らしいパフォーマンスを披露した。
スーパーボウルで起きた大事件を機にキャリアはどん底に
スーパーボウル史上最大の事件が起きたのは、2004年のハーフタイムショーでのこと。ジャネットは全米で1億人以上の人がテレビにかじりつくこの一大イベントの目玉であるハーフタイムショーに出演し、ゲストパフォーマーのジャスティン・ティンバーレイクと共演。パフォーマンスの途中、ティンバーレイクがジャネットのジャケットを脱がせ、インナーのビスチェを見せる演出が予定されていたが、誤ってジャネットの胸が露わになってしまった。
国民の半数以上が観ている生放送での惨事だったため、「胸を見せた方が悪い」と一方的に悪者扱いされたジャネットはすぐに謝罪を強いられ、この1週間後に予定されていたグラミー賞の出席も取り消された。また、スーパーボウル後にリリース予定だったアルバム『Damita Jo』のセールスは、前作の『All For You』から570万枚近くも激減。彼女の楽曲はラジオからも締め出されるなど、キャリアはどん底に。
一方、沈黙を守ったジャスティン・ティンバーレイクはおとがめゼロで、グラミー賞にも普通に出席。キャリアも上昇を遂げていく。今ではこの事件は白人男性であるティンバーレイクが守られ、黒人女性のジャネットが見せしめにあうという、人種差別や女性差別だったと指摘されているが、当時は「胸を見せたジャネット」が事件の加害者とされていた。
ただ、ドキュメンタリーの中でジャネットは、当時騒動の渦中にティンバーレイクから連絡があり、「声明を出すべきかどうか」相談されたと語っている。しかし、そうすることでティンバーレイクもバッシングの渦に巻き込まれることを懸念したジャネットは、「みんなの標的は私。私があなたなら何も言わずに黙ってる」と、彼に釈明をしないようアドバイスをしたという。その結果、ジャネットは一人辛い思いを抱えることになったが、親しい友人や家族と過ごしながら自身のキャリアにフォーカスすることで乗り切った。そして、今ではこのスキャンダラスな過去の出来事を乗り越え、ティンバーレイクとも友情関係にあるそうだ。
50歳にして出産。3度の離婚も乗り越える
2012年にはカタールの大富豪ウィサム・アル・マナと3度目の結婚をし、2017年に50歳で第一子となるイーサ君を出産した。世間からは超高齢出産だのと余計な声があがっていたが、どうしても子どもが欲しかった彼女は、外国の医師にかかるなどさまざまな努力を試みたという。そして、ついに念願のベイビーを授かることに。ところが、出産から3カ月後にウィサム・アル・マナとの離婚を申請。夫婦の間になにがあったかはわからないが、離婚から5カ月後にジャネットは全米ツアーを開始し、世間に元気な姿を披露した。
Text: Rieko Shibazaki
