ニューヨーク州北部で育ったエリック・ヴェトロは、現在68歳。幼少期からエルヴィス・プレスリーやジュディ・ガーランドといったアーティストの歌声に魅了されていたと言う。声楽を学び始めた少年時代から、レッスンで習得した内容を友人たちに教えることが好きで、高校時代には学校で『ウエスト・サイド・ストーリー』が上演された際、音楽監督からクラスメイトの指導を任されたほどだった。ニューヨーク大学とジュリアード音楽院で学んだ後、パフォーマーとして活動した時期もあったが、ステージに立つよりもヴォーカルコーチの道を選んだ。
ハリウッドを拠点に舞台俳優の発声指導を手がけ、高い評判を得ると映画界からも依頼が殺到。アカデミー賞やグラミー賞の常連となるトップスターたちをクライアントに抱えるようになった。彼の指導は、単に発声や歌唱の技術を磨くだけにとどまらない。生徒の感情や精神状態にも寄り添い、相手の性格に合わせて厳しく指導することもあれば、励まして自信をつけさせたり、それぞれに最適なアプローチを見つけていく。その指導法には業界内から多くの信頼が寄せられている。
憧れのグリンダを演じるアリアナ・グランデを長年サポート
アリアナ・グランデは、ヴェトロにとって最初期のセレブ・クライアントの1人であり、13歳のデビュー前から指導を行っていた。フロリダ州に住んでいた彼女とスカイプでレッスンをし、彼女がロサンゼルスに移住した直後は家も近かったため、週5日レッスンを行うこともあった。
ジョン・M・チュウ監督による『ウィキッド ふたりの魔女』でグリンダ役を演じることはアリアナにとって夢であり、オーディションに向けて数カ月前から猛特訓した。「アリアナは信じられないほど広い声域の持ち主ですが、ブロードウェイらしい正統派のソプラノ・ヴォイスを習得するために何カ月も取り組みました。それがグリンダのあるべき姿でしたから」とヴェトロは語る。
主演のシンシア・エリヴォをはじめ、キャストが生歌を披露する本作には欠かせないスキルを習得したアリアナは、「私の声は飛躍的に上達しました。もう長時間のウォームアップは必要ありません」と話し、ヴェトロも「どんな状況下でも対応できるでしょう。逆立ちして高音を出せと言われてもやってのけるはず」と太鼓判を押している。
ボブ・ディランの歌声を習得したティモシー・シャラメ
『名もなき者/A COMPLETE UNKNOWN』でボブ・ディランの独特な歌声を見事に表現し、ディラン本人からも演技を絶賛されたティモシー・シャラメ。単なる模倣に陥る危険性をはらんだ難役を、より高い次元へと引き上げる手助けをしたのがヴェトロだった。ティモシーとは、『ウォンカとチョコレート工場のはじまり』(2023)に続く2度目のタッグとなる。
ヴェトロが目指した究極のゴールは、ティモシーが"ディランとして"ライブで歌えるようになること。そのため、彼がディランの本質を深く理解することに重点を置き、指導にあたった。本作で描かれるのは、20代前半の若きディランであることを意識しながら、「その人物ならではの特徴、そして彼を特別な存在にしている要素を捉えることが重要でした」とヴェトロは語る。一方で、「本当に優れた俳優は、言葉では説明できない何かを捉えることができる」とティモシーの才能にも言及している。
エネルギッシュなキャラクターだったウィリー・ウォンカとは対照的に、ディラン役ではよりレイドバックした雰囲気をまとい、ティモシーはギターを手に、ハーモニカ・ホルダーを首にかけてレッスンに現れ、話す口調もまるでディランのようだったという。ジョーン・バエズを演じたモニカ・バルバロとともに、その完成度は非常に高く、ヴェトロは早い段階で2人ともライブ演奏が可能であると確信。それを受けて、ジェームズ・マンゴールド監督はライブ撮影を決断したそうだ。結果として、ティモシーは本作でアカデミー賞主演男優賞にノミネート。20代で2度目の主演男優賞ノミネートを果たしたのは、ジェームズ・ディーン以来70年ぶりの快挙となった。
マリア・カラスの悲哀を感じさせたアンジェリーナ・ジョリー
これまでJFKの未亡人となったジャクリーンを描く『ジャッキー/ファーストレディ 最後の使命』(2017)、ダイアナ元妃の孤独を描いた『スペンサー ダイアナの決意』(2022)などを手がけたパブロ・ラライン監督。最新作『Maria(原題)』で伝説的なオペラ歌手マリア・カラスを演じたアンジェリーナ・ジョリーは、歌の経験がほぼゼロの状態からの挑戦だった。
実は、過去の交際相手が彼女の歌声を好まず、歌うことに対する苦手意識を持っていたという。ヴェトロは3人のオペラ歌手によるチームを構成し、アンジェリーナは彼らから呼吸法、発声、音程のコントロール、オペラ特有の姿勢などを学び、7カ月間の集中トレーニングを経て、プッチーニの「ジャンニ・スキッキ」のアリアを歌えるまでになった。
本作では、カラスの録音にアンジェリーナの声をブレンドする形で劇中の歌唱シーンが制作され、リアルな演技のために撮影現場で実際に歌うことも求められた。精神的なプレッシャーは大きかったが、彼女は見事に壁を乗り越え、「自分の声と向き合うことができた」と語っている。ラライン監督は「彼女の努力は驚くべきもの」と絶賛し、ヴェトロも「初日と最終日でこれほど大きく変わった人は初めてです」とその成長を評価している。
エルヴィス・プレスリーの声色に口調も似せたオースティン・バトラー
オースティン・バトラーとは、彼が16歳の頃からの知り合いだった。彼の当時の恋人ァネッサ・ハジェンスがヴェトロの生徒だったからだ。その後もヴェトロと連絡を取り合っていたオースティンは、『エルヴィス』のオーディションの際にレッスンを依頼した。ちょうどその頃、ヴェトロはエルヴィス・プレスリーの孫娘ライリー・キーオのレッスンをしており、彼女はオースティンと祖母のプリシラ(エルヴィスの妻)が話す機会を作ろうとしてくれたそうだが、残念ながら実現はしなかったそうだ。
オースティンは、映画完成後の宣伝活動中もエルヴィスの口調を維持し、ゴールデン・グローブ賞で主演男優賞を受賞した際のスピーチでも、エルヴィスそっくりの話し方だったことが話題となった。コロナ禍で撮影が長引き、3年近くも声を維持していたことが要因とされるが、そもそもオースティンとエルヴィスの声質はそれほど異ならないとヴェトロは語る。10代の時より声に深みが増し、「20代になった彼は物静かでゆっくり話す。それがエルヴィスの声の特徴に合致していました」と分析する。本作で飛躍的に知名度が上がったオースティンは、アカデミー賞の主演男優賞候補にもなった。ちなみにヴェトロは、ソフィア・コッポラ監督の『プリシラ』でエルヴィスを演じたジェイコブ・エロルディの指導も務めている。
レネー・ゼルウィガーは『ジュディ 虹の彼方に』でオスカー獲得
「ジュディ・ガーランドにレッスンすることを夢見る子どもは少ないだろうけど、私はそうだった」と語るヴェトロ。その夢は叶わなかったが、2019年の映画『ジュディ 虹の彼方に』でジュディを演じることになったレネー・ゼルウィガーのコーチを務めた。
レネーは1年かけてジュディの歌唱法を学んだが、元々の彼女の声は熱唱タイプのジュディに比べると軽やかなので、声の強化から始めたという。首と顎をリラックスさせ、音程をキープする呼吸法やエクササイズを取り入れ、対面とオンラインでのレッスンを重ねた。リアルな演技を追求するために義歯も装着した。「より大変になったかもしれないけれど、結果的にはさらにジュディらしい声になる助けになりました」とヴェトロは語る。
歌唱だけでなく台詞回しも研究していたレネーに対し、レッスンの際はジュディとして振る舞うよう提案した。やがて練習中にふとした会話の口調がジュディそっくりになったレネーを見て、「彼女は本当にジュディになっている」とヴェトロは感じたという。レネーは本作で見事、アカデミー賞主演女優賞を受賞した。
Text: Yuki Tominaga
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