「羅臼昆布は日本一、つまり世界一手間ひまをかけて作る昆布です」と、羅臼昆布の生産に携わってきた羅臼漁協組合の天然昆布部会長 井田一昭は話す。水揚げから製品として完成するまでに約100日。古来伝承されてきた23回にも及ぶ工程の一つたりともいまだ省くことなく、次世代にも独自の製法を継承している。天日干しの後に夜露にあてて湿らせ、巻いたり伸ばしたりを繰り返し、「奄蒸(あんじょう)」という旨みを出すための熟成を必ず三度行う。こうしてできた羅臼昆布からは、群を抜いて濃厚な出汁が取れる。その旨みの力強さは海外の硬水にも負けないほどだ。世界一のレストランとして不動の地位を築いてきたNOMA(ノーマ)も、大量の羅臼昆布を使っていたとか。
海水温の上昇が羅臼の海を荒廃させる
羅臼昆布の旨みは、羅臼の海が上質な昆布の生育条件に恵まれた極めて優良な漁場であることも大きな要因だ。羅臼沖は寒流と暖流がぶつかる豊かな海で、冬にはロシアから押し寄せる流氷がアムール河のミネラルを運びさらに海を肥やす。その上、海と山が極めて近接しており、山から流れ込む伏流水が海をかき混ぜる。この類稀な海が、深い旨みを蓄えた分厚く長い真っ黒な昆布を育てているのだ。
ところが、特にこの10年で著しく羅臼の海が荒れてきていると井田は証言する。地球温暖化による海水温の上昇は流氷の勢力を減少させ、寒海性の昆布に黄変や短尺化などのダメージを与えるほか、本来はもっと南に生息するはずの石灰藻類(無節サンゴモ等)が増殖し、海底を石灰化して昆布の根付きを妨げる。同時にこの石灰藻類はウニの繁殖も活発化させ、身のないウニが昆布を食い荒らす「磯焼け」を加速させてしまう。
「昔は海中に昆布をはじめいろんな海藻が茂った海の森があり、魚もたくさんいたんですよ。今は何も生えなくなり魚もいない。先人の漁師たちは海と同様に山も大切にしていました。“木を一本でも余計に切ると昆布が育たなくなる”と戒められ、羅臼の環境や生態系全体を大事に守ってきたんです」羅臼昆布の背景にあるのは、長い年月に渡る努力の積み重ねによって維持してきた羅臼の生態系そのもの。羅臼の宝、つまりは日本の宝が今、危機に晒されている。
失ってはならない宝を守るために
井田たち漁師は羅臼昆布を未来へつなぐため、数年に一度、海底の石灰質を重機で除去する大掛かりな作業を行なっている。多少は国の補助があるものの、ほぼ漁師の自助努力に委ねられているこの状況は限界に近い。そんな中で井田は73歳を超えてなお、次世代や料理人、消費者に漁師の立場から羅臼昆布を語り続ける。そうすることで未来を託すのだという。
羅臼では子どもの離乳食に昆布を混ぜる。幼いうちから出汁が味覚に染み込み、生活の中で自然と和食文化が継承されていく。その営みと文化が失われることは日本や世界にとってどれほど大きな損失だろう。羅臼昆布に起きていることは北海道の至る所で起こり得る。海洋資源が何によって支えられているのか、そしてそれは有限であるという認識を今一度強くしたい。
Text: Maiko Morita Special Thanks: Emi Sugiyama Editor: Mina Oba